(2) 不況下の失業対策と労働問題

623 ~ 626 / 1465ページ
 大正九年、すでに不況に見舞われたとはいえ、関東大震災の結果、しばらく復興事業に助けられて、大不況襲来が何とかくりのべられていた。
 しかし、世界的不況にまきこまれた日本は、ついに昭和二年の大恐慌によって徹底的にうちのめされた。モラトリアムによる世相の深刻な不況からは容易に浮かびあがれなかったといってよい。
 就職戦線は不況のドン底に陥り、「大学は出たけれど」の言葉が流行したほどで、巷には倒産による失業者が満ちあふれるという状態であった。
 ストライキは各所で行なわれ、赤旗もひるがえり、東京市内の景況もまったく不況一色といった感があった。左翼思想の台頭も次第に激しくなっていった。
 市も区も、民生事業としての就職斡旋には、民生委員とタイアップして随分努力したが、種々の負担金を出す程度でどうにもならない状況にあった。
 とくに区内においては、芝浦地区は労働者階級の一つの拠点、港湾労働者の集中する地区であり、不況が深刻化すればするほど、それらの人々にたいする福祉施設の面の充実が大きな仕事だった。
 そこに芝区のうちでも、とくに芝浦の労働者たちにたいする福祉施設が設けられた大きな理由があった。
 これら労働者を対象に昭和二年芝浦埠頭に市設の芝浦食堂が設けられ、昭和七年田町食堂ができて、安い値段で食事を提供したし、昭和二年四月には、市の芝浦職業紹介所(後の労働紹介所)もできて労働者の一つの中心になっていった。さらに別に、芝区内では芝園橋職業紹介所ができ、大きな役割を演じた。
 

表27 昭和二年区内職業紹介事業(『東京市統計年表』)

求 人 者 数求 職 者 数就 職 者 数
東京市設芝浦
職業紹介所
東京市設芝園橋
職業紹介所
218,091

9,826

3,423

2,898

221,514

12,726

227,916

12,141

3,423

1,461

231,339

13,602

218,091

2,851

3,423

509

221,514

3,360

備考 芝浦職業紹介所は自由労働紹介所である。



震災復興当時の芝浦職業紹介所

【芝浦宿泊所】 当時芝浦方面には港湾の建設工事従事者および沖仲士など港湾関係労働者が多数集まったが、適当な宿舎がなく、木賃宿に宿泊する者が多かった。そこで、港湾関係労働者を対象として市は鉄筋コンクリート造り三階建ての東京芝浦宿泊所を建設し、昭和五年六月一日完成・開所した。宿泊所は一泊金一七銭(昭和六年六月一日より一五銭)、収容定員三二〇名であった。昭和五年十二月には五九四四人・一日当たり約一七七人、昭和八年には月平均四八六六人・一日当たり約一六三人が宿泊していた。
 芝浦港が建設されているころ、昭和二年金融恐慌が起こって、一部の失業者はルンペンとなって、住宅なき生活者におちていった。
 昭和十二年十一月、市社会局はルンペン調査を行なったが、芝浦方面では芝区高浜町付近一四名、高浜町地先貨車内一名、札の辻陸橋下四名の一九名で「小屋がけバタヤ」とよぶ定着のものが大部分で、健康者で、年齢層も若いのが特色だったという。芝浦が港湾労働者を必要とした点もあって、農村から大不況のなかでの唯一のよりどころとして、都会に出てきて職を求める人々の多くが芝浦に集まってきた。流れこんだすえが、職もなく、こうした生活におちてゆく人々も少なくなかった。
 こうした不況による貧困家庭の増加で、家庭の主婦まで職業戦線へ進出を余儀なくされ、その子を保護する児童福祉の点から、芝区の白金三光町に託児所および児童相談所が昭和五年三月開設された。これが四月に隣保事業のセンターとしての白金三光町市民館となって、芝区民の福祉の中心になっていった。その後、昭和八年一月北日ケ窪に麻布市民館、昭和十年一月赤坂桧町に赤坂市民館が開館した。
【芝浦仲仕休憩所】 また、芝浦が港湾労働者の重要地点となったため、昭和十四年(一九三九)二月には、東京港内の労働者を対象として、芝区海岸通三丁目一番地に東京市芝浦仲仕休憩所を設置し、多数の沖仲仕の不就労時間の休養保護をはかり、さらに余暇の有効な利用につとめた。利用者は増加の一途をたどり、一日平均三八〇名が利用していた。
 方面事業は、厚生局と名称変更後も社会局以来の方向をうけついでおこなわれた。その後の時局の変転により要救護者は一般的に軍人援護への切りかえ、軍需景気による労働力不足のためやや減少の方向をたどったといわれている。
【公益質屋】 昭和初期の社会事業施設として特筆すべきものに公益質屋がある。不況のもとで、一般市民への低金利利用を考慮して各区に設けられた市の施設であるが、昭和五年六月、芝区にも芝白金三光町に白金質屋が開設された。最初は貸付額一口一〇円以内・一世帯五〇円までとしたが、不況が深刻化したため、これを倍額まで貸すことにして、昭和初期の多くの市民から感謝された。