(3) 港区内における二・二六事件

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【二・二六事件】 第二次世界大戦のもとにおける港区を語るうえで、ぜひとものべておかなければならぬのは、昭和十一年の二月二十六日に起こった青年将校の決起事件、いわゆる二・二六事件である。
 軍部が昭和六年の満州事変勃発以来、次第に若手将校たちにつきあげられて、右旋回をとげるとともに、時局は容易ならざる方向に展開していった。五・一五をはじめとしてテロ事件が相つぎ、平和なよき時代とうたわれた震災後のムードは次第に影をひそめ、軍事的色彩が強く東京市民の生活におおいかぶさっていった。皇道主義をとなえる右翼思想が若手将校によって行動にあらわされる傾向になっていった。
 この時、昭和十一年二月二十六日、いわゆる二・二六事件がおき、青年将校の決起によって、東京市内は重大な危機を迎えて、騒然となっていった。
 この日の払暁、陸軍部内のいわゆる皇道派青年将校に率いられた麻布歩一・歩三、赤坂近歩三各連隊等の一部決起部隊は、赤坂表町・高橋是清蔵相私邸、麹町三番町・鈴木貫太郎侍従長官邸、四谷仲町・斎藤実内大臣私邸、杉並上荻窪・渡辺錠太郎陸軍教育総監私邸、首相官邸、警視庁、湯河原・伊東屋別館(牧野前内府が滞在中)等をそれぞれ襲撃して、蔵相、内大臣、教育総監を殺害し(岡田首相は身替わりのため、牧野前内府は事前退去のため無事)、鈴木侍従長に重傷を負わせるなどの惨劇がくりひろげられた。
 このおり、多くの下士官・兵は理由もわからず引率されて兵舎を出ていったため、反乱軍となったが、青年将校等の鎮圧で、反乱軍も原隊に帰り、隊内の秩序も一応維持することができた。
 しかしこの事件で、赤坂の料亭・幸楽は反乱軍に占拠され、その本営ともなったため、区内でも、幸楽のあった山王一帯は大変な騒ぎであった。
 何といっても、区内(赤坂表町)における高橋是清邸襲撃は、この事件を区民に忘れられぬものにした。(高橋是清邸は、今は高橋記念公園となって、保存公開されている。)