高橋是清蔵相の最期については、『読売新聞』が事件発生後二十数日を経過した時点で、
高橋蔵相邸が襲はれたのは五時十分だ。まだ開かれてない表門を打破る音、邸内の玉砂利を踏む雑然たる靴音、銃声、浅い暁の眠りに鎮まり返ってゐた同邸は一瞬にして騒然たる空気に包まれてしまった。このとき、高橋さんは二階十畳の寝室に眼を開いて静かにこの物音に耳を傾けていた。隣室に床を並べて寝てゐた女中、看護婦連が顔色を変へて飛び起きると年嵩(かさ)の女中阿部ちよさんが転げるように蔵相の寝室に飛び込んだ。と、その時蔵相は寝巻のまま床の上に坐ってちよさんを振り返った。その眼は静かに澄んでいた。瞬間自分のはしたない態度にハッとしたちよさんは、思はず両膝をついて「大変騒々しい物音がしますから」といふと蔵相は「ウンなあに屋根から雪でも落ちたんだらう」とポツンと答へただけだった。邸を根こそぎ揺り動かすやうなこの物音を軒を落ちる雪と間違えるような高橋さんではない筈だ。それはすべてを知り抜いた大悟の姿だ。最後まで身辺のものを驚ろかせまいとする細かな心遣いはいつまでも近侍の女達を泣かせたのだ。
間髪をいれず部屋の様は一変した。高橋さんは片手をついて床の上に立ち上らうとしながら、「何をするツ!」と大喝一声を最後にその場に打ち倒れてしまった。鼎(かなえ)の沸(わ)くような騒ぎからまたもとの静けさにかへった。部屋に無残に横たはる蔵相の遺骸、その枕許にゆうべの読みさしの英字新聞が紅に染んでいた。この朝邸内では警戒の麹町署の一巡査が両手に銃創をうけた。(『読売新聞』昭和十一年三月二十三日付)
となまなましい当日のさわぎを伝えている。
しかし、青年将校たちの行動は、東京市民を驚ろかせ、一部に不安の心をうえつけただけで、やがて「反乱軍」のレッテルがおされて、市内における状況は一変した。
二月二十六日戦時警備令下令せられるや、蹶起部隊は第一師団長の隷下に於て小藤支隊として編成せられ、小藤大佐の指揮に属し、戒厳令宣布せらるるや引続き小藤部隊として第一師団長の隷下に属し、南部麹町地区警備の任をうく。而して二十七日午後第一次小藤支隊命令下達せられて、これに基き各部隊は夫々各大臣官邸、山王ホテル、幸楽等に配宿し、完全に小藤大佐の指揮下に掌握せらるゝに至れり。(村中孝次『続丹心録』)
こうして、赤坂幸楽が青年将校決起部隊で大変な騒ぎになっている間に、戒厳令はしかれ、反乱軍見物のヤジウマも次第に影をひそめ、二十九日、「兵に告ぐ」の放送をはじめ、帰順勧告が行なわれた。反乱将校も遂に下士官や兵を原隊に帰し、自分たちは陸相官邸に集まって逮捕される形をとり、ここで一応この事件は沈静に赴いた。