配給制度

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 昭和十四年九月一日、ドイツ軍がポーランドに侵入して第二次世界大戦の口火が切られた。わが国では、これまでにも戦線の拡大とともに国内の物資は不足がちとなり、十三年ごろからは綿製品は次第に窮屈になり、区民の比較的低物価による安定した生活が動揺するようになっていたが、「九月十八日価格等統制令」が出て、この日の値段で一切の物価値段が抑えられた。
 これが出てからは、まったく配給統制経済の時代となって、十四年十二月には木炭が配給になる。十五年には米や小麦など主食が配給となって、戦時下という意識を強めた。さらにマッチは一日五本、砂糖は月・一人半斤(三〇〇グラム)の配給制となり、七月には「七・七禁止令」が出て、作ってもいかん、売ってもいかん、食べてもいかんという贅沢品禁止令となった。ついには、魚も野菜も配給制となるに至った。区民の食生活は著しく圧迫され、魚は一人一〇匁(三七・五グラム)、味噌は一月一人一八三匁(約六八六グラム)、砂糖は茶碗一杯、野菜は主として南瓜(かぼちゃ)で、その南瓜の配給も一週間に一人五〇匁(一八七・五グラム)程度という耐乏生活を強いられることになった。

衣料切符(昭和19年~20年)

【ガソリン統制】 物資の欠乏とともに、戦時用品の確保はガソリンに及び、市中を走り回っていたバスもタクシーもガソリン統制にあって、次第に困難となり、ついに十六年三月からは苦肉の策として木炭車がお目見得して、尻から煙を出して走る状況になっていった。