芝浦方面の発展、とくに戦時中の軍需工場の拡大は、芝浦の工場地帯を盛大に赴かせるとともに、軍需工場に勤務する若い学徒や女子の勤労動員者の大量の通勤を促し、朝夕のラッシュ時の田町駅の混雑は驚くほどであった。
昭和十六年五月の東京港の開港は、日の出桟橋を中心に多くの大船の寄港を容易にしたことと相まって、戦時下の物資輸送のために芝浦一帯が条件的に好位置におかれた。芝浦工場地帯の重要性は、当然ここを東京における軍関係の戦時における一つの中心地にしていった。
しかし、戦局が次第に容易ならざる段階に達すると、大工場をむしろ機械などの保護のため地方の安全地帯に疎開するという問題も生じたのであるが、そこまで容易に進捗しないうちに、ついにB29の襲撃をうけるに至り、多くの工場の焼失、ことに芝浦工場地帯の焼失破壊は、も早いかんともし難い状況におかれたのであった。