存亡の危機に立つ中小商工業者

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 物資の統制によって、中小商工業者は、原材料の入手が不可能になったり、製品そのものの製造が制限または禁止の措置にあって、倒産・転業・失業という深刻な事態に追い込まれて大企業の軍需工場の下請けに系列化されたり、軍需工場の労働者として吸収された。長年営んだ生業を廃業・転業することは、不安と不満が大きかったが、政府は、戦時の「時局の重大性」を盾にして、押し切っていった。
 その苦境の一例を区内の特色だった芝家具商たちの戦時下の生活にみよう。『芝家具の百年史』によると、その「苦労」と「のがれ方」がよくわかる。
 
  戦争からの圧力は、とりわけ商人にとって厳しく、つらい思い出として残っている。本格化した統制経済のもとでは、文字どおり、物がものをいった。戦争のために資材が動員されると工場を持たぬ店だけのところには、材木はおろか釘一本鋲一本自由にはならない。できあがったもののごまかしはきかない。それが闇製品でないという証明になる証紙をもらって、それを現物に貼らないですませる。つまり運搬中にはがれるといったような口実で、別に携行し、経済警察にあえば、みせられるようにしておく。納品がすめば、証紙をそのまま持って帰って、たらい回しに使う、まあ、それくらいが抜け道だった。
  彼らはどんな戦時下の生活を送ったか、いくつかの思い出を追ってみよう。
  いわゆる勤労奉仕があった、大日本産業報国会というものの一環として、東京家具組合商業報国隊といったような組織を作った。週に二回くらい、各店から一人二人ずつが出て、いろいろなところへ奉仕に行った。
  日の丸弁当に巻脚絆、新橋駅前に整列して点呼をとり、赤羽の陸軍工廠その他のところへ出かけるわけである。機関銃を油をしみこませたボロぎれで磨いたり、弾丸を運んだりした。家具に関係のあることといえば、東京都内の各連隊の兵舎にある机その他の家具什器の修理に行ったこともある。大森の東京瓦斯電気工業構内の陸戦隊(現いすゞ自動車)では、竹を結び合わせる作業をした。この竹は、船舶が撃沈されたときに浮袋代りに使う筏(いかだ)だったそうである。
  人手不足をカバーするために郵便配達もやらされた。馴れない手つき足つきで配達して回るのも国のためと思えばこそできたことである。その報酬は国債でもらったということである。
  それから統制にともなう規格家具の検査という仕事もあった。一カ月に三日やればすんだそうであるが、これなぞははじめ業者の自粛的な意味ではじめたという。
  考えてみればほんとうにおかしなことだが、材料の配給はないはずだのに家具ができ上って来るから、それに検査表示の証紙を貼るというような矛盾も、事実上あった。等級は三種類にわかれ、一級はたとえば片袖四五円、二級は同じく四〇円、それに規格外といったぐあいで、規格番号と店ごとの登録番号がそれぞれあった。証紙は一級はセピア、二級は白だったという。この証紙が先述のようにたらい回しにされたり、あるいは、たくさん積んだものの外側にみえる分だけにはっておいたりした。ものの判った家へ納める時には「いいよ、いいよ」というのではらずに来るのである。申請書によって品物が出るからその数だけ証紙を持って歩いて言いのがれをする。一度検査を受ければあとは何回にも使う手である。