疎開

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 戦争が熾烈となり、欧州における大空襲などが伝えられると、東京も疎開準備に忙殺されるようになっていった。
 まず、縁故のある者が地方へ疎開していった。昭和十八年七月、東京都が成立すると、もう疎開は、それを一歩進めて、建物疎開、衣料疎開、さらに十九年三月には人員疎開の措置要項が発せられた。軍の方針もあり、区民も働ける人々はできるだけ東京にふみとどまって、東京を空襲から護る「防空防火は都民の手で」とそう疎開に熱心ではなかった。だいいち疎開するにも故郷をもたず、東京が故郷という人々が区内にもかなりあった。
 しかし、十九年四月一日「京浜地域人員疎開措置要項」の通達が出ると、芝・麻布・赤坂三区とも、人員疎開重点地域に指定され、五月上旬区役所内に疎開指導所が設けられて、縁故先のない者は極力各府県と受入れ交渉を進めるようになった。だが、十九年十一月から米軍による本格的空襲がはじまっても、まだ、東京に残っている人も少なくなかった。それが二十年三月九日・十日の大空襲からは、まったく地方へ疎開しようという考えに一変し、〝東京を護る〟から〝東京を逃げ出す〟ことに全力をあげていった。