学童疎開

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 人員疎開事業のうち画期的なものに、学童疎開がある。小学生を空襲から護るため、都は大規模な集団学童疎開計画をたて、戦局急をつげ、欧州における絨毯(じゅうたん)爆撃の状況が伝わるにつれ、学童を疎開させることで必死に父母を説得した。国民学校と名称の変わった初等科三年以上六年までを学童疎開の対象とし、神奈川県を除く関東各地の旅館や寺院などを宿舎とし、教職員や寮母とともに父母の膝もとをはなれて集団生活をするという前代未聞の大事業が行なわれることになった。
 十九年八月を皮切りに、ぞくぞくとして都内の学童は割あて地に出発し、区内の学童も、左記の各地に疎開した。
 
  芝区 栃木県三、八六二名 山梨県一二三名 計三、九八五名   麻布区 栃木県一、八二六名   赤坂区 三多摩八〇七名   三区合計六、五一八名。
 
 しかも、その後、時局の重大化とともに集団疎開の児童数も増加し、最大時に八、九五八人を数えた。ただ、区内の最大特色ともいうべきは、縁故疎開児童数が集団疎開児童数を上回っていることである。縁故疎開で地方へ出ていった児童が、九、六七八人という数は、まったく意外といってよい。その縁故が、地方から出てきた人たちの地方へ預けられたものより、邸(やしき)町などで、必死に縁故先を探して東京を離れたりした例が少なくなかったという。これと反対にどこへも疎開せずに踏みとどまった児童が、大体七、五〇〇人余いたことは確実で、これは食糧配給の減少に加えて、連日の空襲と、十九年末から二十年五月にかけて一番苦しい毎日を送らざるを得なかった児童たちであった。こうして七、五〇〇余の児童が空襲下の区内に残留していた点は、注目されてよい。
 集団疎開の児童たちは食糧不足で苦しい疎開生活を毎日送ったとはいえ、空襲の悲惨さを味あわなかった点で、どんなに幸せだったか知れない。三田や麻布一帯が大被害を蒙った二十年五月二十五日の空襲などの惨状を想えば、学童疎開の価値は大きかったといえる。