残留した学童や、それを指導した先生たちの苦労も大変だった。
赤羽国民学校では児童は集団疎開して留守で、海軍のあかつき部隊が入りこんでいた。それをねらいアメリカの戦闘機の機銃操射が行われたりもした。あるとき、急にジャリジャリと何か非常に重いものを引きずるようなすごい音がしたと思ったら、機銃操射の銃丸が赤羽国民学校側の職員室の窓ガラスをつき破ってとびこみ、職員室をぬけて校長室の廊下のコンクリートの壁にぶつかって止まったことがあった。幸い負傷者はなかったが、恐ろしいことであった。
『戦乱と港区』(昭和四四・区立三田図書館刊)
戦時中、学童疎開もできず東京にとどまっていた学童たちは、ほとんど毎日のように空襲があったため、普通の学校生活を送ることができず、警報が出ると防空頭巾に身をかためて、コッペパン一個をもらって家へ帰ったということ(『東町――目でみる六十年』東町小学校刊)で、残留の学童もその毎日の生活は悲惨だった。