いま、芝・麻布・赤坂の三区を一つにして、その人口の減少状況をみると、次表のとおりである。
表30 人口の減少
①三区合計
年次(昭和) | 世帯数 | 人 口 | 一世帯 平均の 人口 | 男女比 (女を一〇〇 とする男子) | |||
総 数 | 男 | 女 | 総数の 指数 | ||||
一五・一〇・ 一 | 六八、八五〇 | 三三六、三一二 | 一七二、九四〇 | 一六三、三七二 | 一〇〇 | 四・八八 | 一〇六 |
一九・ 二・二二 | … | 二九一、九九七 | 一三六、二三六 | 一五五、七六一 | 八七 | 八八 | |
二〇・一一・ 一 | … | 九六、六〇四 | 五三、二四二 | 四三、三六二 | 二九 | 一二三 |
②旧三区別
年次 | 昭和一〇年 | 昭和一五年 | 昭和一九年 |
旧区分 | |||
芝 区 麻 布 区 赤 坂 区 | 一九〇、七五七 八七、八五七 五八、七〇〇 | 一九一、四四五 八九、一六三 五五、七〇四 | 一六三、三九六 七九、六九九 四八、七〇二 |
区内人口総数は、少なくとも昭和十五年までは頭打ちか、わずかながらも増加を示していた。ことに芝と麻布の両区はともに少しはまだ発展の様相を呈していた。しかし〝戦時〟の身にしみる昭和十五年となると少し違ってきた。
【空襲による人口の激減】 昭和十五年の国勢調査によると、芝区と麻布区は頭うちの形を示し、赤坂はわずかではあるが人口の減少がみうけられる。恐らくは、赤坂に比較的有閑地帯があり、戦時を反映して、そろそろ他へ疎開を心がける人々があったためかも知れぬ。
昭和十九年はまだ二月の段階で、区内が大打撃をうけぬ時の人口である。それでもこれだけの減少をみている。どんなに空襲があっても、東京に踏みとどまっていようと考えていた多くの区民が、東京をできるだけ脱出して地方ぐらしをしようと実行に移るのは、三月以降の大空襲があってからであった。もうこうなると、少しでも身の安全をはかるのが第一になって、疎開先のない人々まで、必死に疎開の場所をさがすようになり、戦災をこうむって焼け出された人々が、ぐんぐん地方へ出ていき、壕舎で焼トタンの小屋にふみとどまる人々は非常に少なくなっていった。