(三) 戦災

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【東京初空襲】 東京が初めて空襲に見舞われたのは、昭和十七年四月十八日で、ドーリットル指揮によるB25六機の来襲だったが、早稲田鶴巻町一帯や葛飾区水元に被害があった程度で、まだ東京市民にはかなりのゆとりがあった。
 その後、戦局は次第に悪化し、ロンドンやベルリンの大空襲と被害が伝わるにつれ、東京も容易ならざる状況を迎え、その対策に狂奔しなければならなくなった。
 学童の集団疎開も大体終了した十九年の秋ごろから空襲警報が次第に頻繁に出されて、ことに七月サイパンが陥落してからは、そこが米軍の基地となったため、東京には連日のように米機が現われるようになっていった。
【空襲開始】 B29の爆撃が開始されたのは、十一月二十四日からで、品川・荏原などがやられたのをきっかけに、十一月二十九日の夜から三十日にかけてはB29一〇機が来襲、区内ははじめて戦火に見舞われた。芝と麻布地区が火災延焼したが、これ以後、東京は再三再四空襲にあい、昭和二十年八月十五日の終戦を迎えるまでに、大半は焼土と化してしまった。
 区内の戦災は十九年中は十一月三十日と十二月二十七日に被害を出したが、主たる被害は二十年になってからで、一月には二十七日に赤坂が被害をうけ、二月九日にも青山が被災した。二月十九日にも青山南町に爆弾が落ち、二十五日には二回の空襲で赤坂地区の青山一帯が被害を出した。しかしまだ、区民もそう空襲を恐れてはいなかったようだ。ところが、三月九日・十日の大空襲ではまったく恐怖のどん底におとされたといってよい。

戦災により焼失した旧赤坂区役所付近

 芝の地域はこの大空襲で大被害をうけ、赤坂の桧町と青山辺、それに麻布の飯倉から三河台町にかけての焼失による打撃は大きかった。
 いままで東京を護ろうとしてふみとどまっていた人々も、この大空襲で、急に命を大切にするようになり、東京を抜け出ることに苦心する態度に変化していった。下町ことに本所深川・浅草・日本橋方面は、この空襲で焼土と化してしまったといってよい。
 

表31 戦災による罹災面積・損失家屋および人的被害

区   域区域面積罹災面積(比率)
芝   区
麻 布 区
赤 坂 区
8.61km2
4.29km2
4.30km2
2.36km2(27.45%)
3.14km2(73.24%)
3.24km2(75.37%)

昭和20年6月21日現在(都道路課調査)


 
区   域戦前戸数家屋の損失(比率)
芝   区
麻 布 区
赤 坂 区
38,577戸
19,611戸
11,878戸
21,863戸(56.5%)
12,590戸(60.4%)
10,406戸(83.7%)

昭和20年3月~5月の罹災。


 
区   域人的被害罹災者数
死亡重傷軽傷
芝   区
麻 布 区
赤 坂 区
都 合 計
257
180
614
92,778
420
197
515
30,404
1,610
1,306
5,038
120,544
68,007
44,584
31,834
3,044,197

上掲3表とも『東京都戦災誌』(昭和28年)より。


 
 その災害の大きさは、いままでの東京の人たちがまったく経験したことのないものだった。隅田川とその両岸が焼死者と水死者で埋まるなどということは、考えてもみなかったことだった。
 区内の惨状については種々の記録が残されている。
 永井荷風は『荷風日記』に、この三月九日・十日の大空襲で、自邸偏奇館焼亡の様子を次のように伝えている。
【三月九日荷風日記】  三月九日。天気快晴。夜半空襲あり。翌暁四時に至りわが偏奇館焼亡す。火は初長垂坂の半程より起り、西北の風にあふられ忽市兵衛町二丁目表通りに延焼す。予は枕頭の窓火光を受けてあかるくなり、隣人の叫ぶ声唯ならぬに驚き日誌及草稿を入れたる手革包を提げて庭に出でたり。谷町辺にも火の手上るを見る。又遠く北方の空にも火光の反映するあり。火粉は烈風に舞ひ紛々として庭上に落つ。予は四方を顧望し到底禍を免るること能はざるべきを思ひ、早くも立迷ふ烟の中を表通に走出で、木戸氏が三田聖坂の邸に行かむと角の交番にて我善坊より飯倉に出る道の通行し得べきや否やを問ふに、仙石山より神谷町辺焼けつゝあれば行くこと難かるべしと言ふ。道を転じて永坂に到らむとするも途中火ありて行きがたき様子なり。時に七八歳なる少女老人の手を引き道に迷へるを見、予はその人々を導き住友邸の傍より道源寺坂を下り谷町電車通に出で溜池の方へと逃しやりぬ。予は三谷町の横町より霊南坂上に出で西班牙公使館側の空地に憩ふ。下弦の繊月凄然として愛宕山の方に登るを見る。荷物を背負ひて逃れ来る人々の中には平生顔を見知りたる近隣の人も多く打交りたり。予は風の方向と火の手とを見計り逃ぐべき路の方角を稍知ることを得たれば、麻布の地を去るに臨み二十六年住馴れし偏奇館の焼け落るさまを心の行くかぎり眺飽かさむものと、再び田中氏邸の門前に歩み戻りぬ。巡査、兵卒、宮家の門を警しめ、道ゆく者を遮り止むるが故、予は電柱または立木の蔭に身を隠し小径のはづれに立ち我家の方を眺むる時、隣家のフロイドルスベルゲル氏褞袍にスリッパをはき、帽子も冠らず逃れ来るに逢ふ。崖下より飛来りし火にあふられ其家まさに焼けつゝあり。君の家も類焼を免れまじと言ふ中、我門前の田島氏、その隣の植木屋もつゞいて来り、先生のところへ火がうつりし故、もう駄目だと思ひ各々その家を捨てゝ来りし由を告ぐ。予は五六歩横町に進み入りしが、洋人の家の樫の木と予が庭の椎の大木炎々として燃え上り、黒烟風に渦巻き吹きつけ来るに辟易し、近づきて家屋の焼け倒るゝを見定むること能はず、唯火焰の更に一段烈しく空に舞上るを見たるのみ。これ偏奇館楼上万巻の図書、一時に燃上りしがためと知られたり。火は次第にこの勢に乗じ表通へ燃え抜け、住友、田中両氏の邸宅も危く見えしが兵卒出動し、宮家門内の家屋を守り防火につとめたり。蒸気ポンプ二三輛来りしは漸くこの時にて発火の時より三時間程を経たり。消防夫路傍の防火用水道口を開きしが水切にて水出でず。火は表通り曲角まで燃えひろがり人家なきため、こゝにて鎮まりし時は空既に明け放れたり。
  三月十日。町会の男来り、罹災のお方は焚出しがありますから仲の町の国民学校にお集り下さいと呼び歩む。行きて見るに向側なる歯科医師岩本氏その家人と共に在るに逢ふ。握飯一個を食ひ茶を喫するほどに旭日輝きそめしが、寒風は昨夜に劣らず、今日も亦肌を切るが如し。(以下略)
 
 空襲による区内の災害の悲惨な状況は、荷風によって、よく表わされているといえる。
【四月の空襲】 これ以後は、区内は相ついでB29の攻撃にさらされ、四月四日には芝区内の海岸より一帯、四月十三・十四日には赤坂の一部、四月十五・十六日には焼失を免れていた芝区内の大部分の地域、麻布では坂下から狸穴にかけて戦災をこうむり、芝区では全焼一四八九戸、罹災者四六〇一人、麻布では一四〇〇戸全焼、四〇〇〇名罹災という大きな被害となった。
【五月の空襲】 さらに、五月二十三日には麻布区内が主として攻撃の目標にされ、飯倉から日ケ窪、鳥居坂一帯が焼失した。翌二十四日も絨氈爆撃に見舞われ、区内でも芝区の新橋・田村町一帯、麻布の本村町・竜土町・笄町一帯、赤坂の青山南町・桧町などが焼失、四一八二戸、罹災者一万五〇〇〇を出した。二十五日から二十六日にかけても空襲で皇居が焼失する大被害を出し、麻布区および赤坂区内に残っていた大部分、芝区では田村町辺と芝公園一帯が焼失、浜松町から白金、海岸通りから芝浦一帯、三田、それに新橋一帯から明舟町まで、区内の大部分は焼土と化した。
【五月末の空襲】 次いで五月二十九日には朝から空襲がはじまり、わずかに残っていた芝区の高浜町・高輪南町などが焼失、品川駅の一部や都の屠場、油再製工場などが焼失した。
 これ以後、B29の空襲は地方都市に移り、焼野原となった東京には来襲はなく、区民がホッと一息ついていた時、八月十三日に芝区の白金三光町が空襲にあい、死者四名を出した。だが、間もなく八月十五日の終戦を迎えて、市民はここにようやく恐ろしい戦禍から免かれて、平和を味わうことになった。
【被害状況】 空襲被害は、東京都全体で死者二四万、家屋損失八五万戸、罹災者三一〇万人といわれているが、このうち、麻布・赤坂・芝三区の被害は、
 
  芝区区域面積八・六一km2罹災面積二・三六km2比率二七・四五%
  麻布区同右四・二九km2同右三・一四km2比率七三・二四%
  赤坂区同右四・三〇km2同右三・二四km2比率七五・三七

となり、芝区は他区にくらべれば罹災比率が低かったが、麻布区・赤坂区は七〇%以上を焼いてしまったのである。
 家屋の損失については、芝区ではその五六・五%、麻布区では六〇・四%、赤坂区では八三・七%が全半焼または全半壊したといわれている。被害はやはり、十九年末から二十年一・二月は少なく、二十年三月以降五月におよぶ再三の大空襲で大きな被害を出しているといえる。
【愛宕山頂で集団自決】 しかし、八月十五日終戦を迎えても、敗戦を嘆き、いきどおった人々もいて、一部に混乱の起こったこともまた否めない事実であった。終戦直後に、愛宕山にのぼって集団自決をした若き人々、その後そのあとをしたって、同じく愛宕山で自決したその夫人たち、それらは終戦を血で彩った区内での最も痛ましい事件であった。