そのひとつ品川駅は、敗戦直後の日本の風景を奏でる象徴的な顔でもあった。
【敗戦のドラマ―引揚げ】 敗戦時、六六〇万人いた海外からの〝引き揚げ〟者の多くが、ここ品川駅八番ホームにまず到着し、そして帰国の途についたからである。
再び開始されたソ連からの引き揚げ者第一陣が滑り込んだのもこの駅頭であった。〝涙と笑い〟の駅・品川の模様を、『港区政ニュース』(昭和二十四年九月十日号)は、次のように伝えている。
品川駅八番ホームは、今日もわが子を、父を、夫を、兄を迎える人の波で活気づいている。列車は定刻八ッ山橋をくぐって姿を現わしゆるやかにホームに滑り込んだ。一瞬ホームは感激と興奮のルツボと化した。やがて二組、三組と家族と相擁した引揚者の姿が人垣を破って現われる。眼を見交したままもの言わぬ親子、すがりつく妻や子、迎える者も、迎えられる者も、幾多の感慨をこめた涙で頰を濡らしている。七月二日ソ連地区引揚再開以来、いくたびか繰返された劇的な感激の光景である。港区では引揚再開以来、愛の運動港地区協議会と共同して品川駅前広場に連絡所を設け、港区婦人会と協力して留守家族や引揚者の接待に努めているが、九月六日までに品川駅頭に迎えた当区関係引揚者は五六名にのぼった。
品川駅頭の引き揚げ者風景
【引揚げ者の収容施設】 ところで、これら復員兵および引き揚げ者の都内を通過するものと、定住地をさがしあてるまでの一時の便宜を図っての短期間の宿泊を目的とした宿泊所が、都内に九ヵ所設けられた。のち昭和二十四年までには、六五の施設がつくられた。港区内にも次の六つの施設がつくられたのだった。
開設年月日 | 都直営年月日 | 施設名 | 建物規模 | 収容世帯 | 収容人員 | 保護世帯 | 所在地 |
昭和二〇・一二・一五 | 二三・一〇・一 | 赤坂寮 | 木造二階建 | 四二 | 一六八 | 〇 | 赤坂一ッ木町三六 |
二一・一一・一 | 二三・一〇・一 | 広尾寮 | 天理教の一部 | 一四 | 二〇 | 〇 | 麻布広尾町七三 |
二一・一二・一五 | 二三・一〇・一 | 盛岡寮 | 木造平屋建 | 三〇 | 九九 | 二 | 麻布盛岡町 |
二二・五・一五 | 二三・一〇・一 | 日窪寮 | コンクリート二階 | 八九 | 三三七 | 六 | 麻布日ヶ窪町三七 |
二〇・一二・一五 | 二三・一〇・一 | 青山寮 | 木造二階建二棟 | 九〇 | 三三九 | 六 | 赤坂青山南町一の五五 |
二〇・一二・二六 | 二三・一〇・一 | 三田寮 | 木造二階建一棟 | 三六 | 一二〇 | 二 | 芝三田綱町九 |
二三・五・六 | 青南寮 | 鉄筋コンクリート三階建一棟 | 三九 | 一〇九 | 赤坂青山南町六の六七二 |
これらの人びとは、多くは帰るべき家もまた職もなく、一時闇屋などをしながら飢えをしのいだという。
【出征と引き揚げの面影はいずこに】 こうした出征と引き揚げの、さまざまな人間模様を刻み記してきた品川駅付近も、いまはその面影を残すものはほとんど消え失せ、白亜のホテルの林立する俗称〝新品川宿〟と呼ばれる風景へと変貌している。また、その周辺から高輪二・三丁目、三田四・五丁目にかけては、高層マンションが建ち並び、かつて高野聖(こうやひじり)が通ったといわれる「聖坂」が、〝マンション坂〟と別名を与えられているほどである。