(三) 引き揚げ列車の駅・品川

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 港区を縦貫する国鉄の主要な駅には四駅がある。新橋、浜松町、田町そして品川がそれである。それはまた、港区の顔をそれぞれ代表しているともいえる。
 そのひとつ品川駅は、敗戦直後の日本の風景を奏でる象徴的な顔でもあった。
【敗戦のドラマ―引揚げ】 敗戦時、六六〇万人いた海外からの〝引き揚げ〟者の多くが、ここ品川駅八番ホームにまず到着し、そして帰国の途についたからである。
 再び開始されたソ連からの引き揚げ者第一陣が滑り込んだのもこの駅頭であった。〝涙と笑い〟の駅・品川の模様を、『港区政ニュース』(昭和二十四年九月十日号)は、次のように伝えている。
 
   品川駅八番ホームは、今日もわが子を、父を、夫を、兄を迎える人の波で活気づいている。列車は定刻八ッ山橋をくぐって姿を現わしゆるやかにホームに滑り込んだ。一瞬ホームは感激と興奮のルツボと化した。やがて二組、三組と家族と相擁した引揚者の姿が人垣を破って現われる。眼を見交したままもの言わぬ親子、すがりつく妻や子、迎える者も、迎えられる者も、幾多の感慨をこめた涙で頰を濡らしている。七月二日ソ連地区引揚再開以来、いくたびか繰返された劇的な感激の光景である。港区では引揚再開以来、愛の運動港地区協議会と共同して品川駅前広場に連絡所を設け、港区婦人会と協力して留守家族や引揚者の接待に努めているが、九月六日までに品川駅頭に迎えた当区関係引揚者は五六名にのぼった。

品川駅頭の引き揚げ者風景

【引揚げ者の収容施設】 ところで、これら復員兵および引き揚げ者の都内を通過するものと、定住地をさがしあてるまでの一時の便宜を図っての短期間の宿泊を目的とした宿泊所が、都内に九ヵ所設けられた。のち昭和二十四年までには、六五の施設がつくられた。港区内にも次の六つの施設がつくられたのだった。
 
 開設年月日都直営年月日施設名 建物規模収容世帯収容人員保護世帯 所在地
昭和二〇・一二・一五 二三・一〇・一赤坂寮木造二階建四二一六八赤坂一ッ木町三六
  二一・一一・一二三・一〇・一広尾寮天理教の一部一四二〇麻布広尾町七三
  二一・一二・一五二三・一〇・一盛岡寮木造平屋建三〇九九麻布盛岡町
  二二・五・一五二三・一〇・一日窪寮コンクリート二階八九三三七麻布日ヶ窪町三七
  二〇・一二・一五二三・一〇・一青山寮木造二階建二棟九〇三三九赤坂青山南町一の五五
  二〇・一二・二六二三・一〇・一三田寮木造二階建一棟三六一二〇芝三田綱町九
二三・五・六青南寮鉄筋コンクリート三階建一棟三九一〇九赤坂青山南町六の六七二

 
 これらの人びとは、多くは帰るべき家もまた職もなく、一時闇屋などをしながら飢えをしのいだという。
【出征と引き揚げの面影はいずこに】 こうした出征と引き揚げの、さまざまな人間模様を刻み記してきた品川駅付近も、いまはその面影を残すものはほとんど消え失せ、白亜のホテルの林立する俗称〝新品川宿〟と呼ばれる風景へと変貌している。また、その周辺から高輪二・三丁目、三田四・五丁目にかけては、高層マンションが建ち並び、かつて高野聖(こうやひじり)が通ったといわれる「聖坂」が、〝マンション坂〟と別名を与えられているほどである。