(六) 花盛りのスポーツ

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 戦災の痛手と価値転換の混乱のなかで、ただ〝生きる〟ことだけで精一杯であった大人たちも、やがてそれから二年後の昭和二十二年の秋を迎えるころになると、街に生きる共同性と生きる喜びとを求めて、その原初としてのスポーツに活路を求め、その花を一斉に開かせていった。
 区役所職員をはじめ区内にある逓信省、保険局などの職場チームを中心に、さまざまな街のチームが結成され、まず運動会が、そして野球、バレー、テニス、卓球などの競技がさかんに行なわれていった。
【都民排球大会】 昭和二十二年十一月八・九両日に、小石川グラウンドで行なわれた都民排球大会では、港区代表として出場した男子の逓信省チームは、二三区二市三郡の俊鋭を打ち破り、優勝するほどであった。
 また、区議会議員も、十一月十日には、千代田区と排球の決勝戦を争い、第二ブロックで優勝するという元気さを示した。
【盛んなダンス講習会】 一方、社交ダンスやスクエアーダンスもこのごろからさかんに楽しまれ、あちこちの小学校の講堂などで、毎夜のように催されたのであった。その講習会の模様を『港区政ニュース』(昭和二十五年十月二十五日号)は、次のように描いている。
 
   十月十六日より三日間毎夜六時から八時まで桜川小学校講堂において、楽しいスクエアーダンスの講習会が開かれた。これは十一月三日東京都主催の都民スクエアーダンスコンクールに栄えの入賞を目指して行われたもので、参加者は毎度百四十名を超え、軽快なピアノのリズムにあわせてジングルベルをはじめレディリード、インサイドアーチ等各種変化のある新しい種目の指導を受けた。毎回お知らせするようにスクエアーダンスは誰にも直ぐ覚えられる簡単な基礎的ダンスの組合わせで、いろいろと変化を生み出す新しいリズム運動であり、その明朗な雰囲気と健康な意味での娯楽性は、若人はもとより中年以上の方々にも大変よろこんで迎えられている。実際踊っている顔ぶれを見るとニコニコと楽し気で皆二十歳前後の人ばかりかと錯覚を起こし勝ちだが、実際には五十以上の方も四十前後の方も相当交っておられる模様で、身心の若返り法として是非中年以上の方におすすめしたいものである。なお区内コンクールは二十三日夜同校において行われ最も優秀な一チーム八名が選抜された。
【議員と職員の合同芸能大会】 こうしたスポーツや芸能をとおして、人の和と生きがいを見つけようとしていった当時の街の人びとの感情のたたずまいをもっとも象徴的に示したものが、区議会議員と区職員による「合同芸能大会」であったといえよう。
 昭和二十三年の九月に東洋英和女学校で催されたこのときのプログラムを見ると、議員、区役所職員が和気あいあいのうちに楽しんだ模様がうかがわれる。当時の井手区長や徳安区議会議長が民謡を歌い、議員たちは詩吟、小唄、都々逸を披露し、渡辺労組委員長が「がまの油」の口上を演じたり、その他尺八や仕舞、踊りも出し物としてあった。また、甲賀流気合術という変わったものもあって、まずは大衆的娯楽のスタイルが勢ぞろいを示したのだった。
【役所にも新劇ブーム】 この席上、新時代の流れを象徴するかのようにハワイアン・バンドも登場し、バレーも演じられた。また、注目されるのは各支所ごとに演劇を出し物としていることであった。麻布支所は『家鴨の出世』(犬養健作)、赤坂支所は『寒鴨』(真船豊作)、本所演劇部は『青雲亭』(村上元三作)を演じている。戦後民主化の動きのなかで、文化運動として新劇が人びとの間に広まったことをよく表わしているものといえよう。マスコミもなく娯楽もとぼしいだけでなく、食糧事情もままならないなかで、職員たちは「新しい時代の到来」という霏囲気のもとに夜おそくまで練習に励んだのだった。