それは、敗戦後の廃墟と飢えと混乱のなかから、少しずつ立ち上がろうとしていった六年間の思い出と別れを告げることを意味するものともなった。マッカーサー。その名は、DDT、予防注射、学校給食などの思い出とともにあった。それゆえに、日本人の多くは、この日、マッカーサーとの別れに、〝感謝と悲しみ〟をこめたのだった。
その主が住んでいたアメリカ大使館のある赤坂周辺の人びとは、元帥にとり日本最後の日の四月十五日、「さようなら! マ元帥、ありがとう」と、その名残りを惜しんで大使館につめかけたのだった。「十五日朝の大使館はいつもの元気な令息アーサー君の散歩姿も見られず、来客もほとんどなくひっそりと静まり返っていた。薄ぐもりのこの日、日曜日でもあり朝早くから子供たちを交えた近所の人々数十名が無量の感慨と名残りをこめて、ひと目でも姿を見たいと官邸正門付近に集まった。」(『朝日新聞』昭和二十六年四月十六日付)
在りし日のマッカーサー元帥