昭和二十六年六月二十一日。新橋西口の野外ステージで港区主催の「港まつり」が盛大に行われた。
明治九年(一九七六)七月二十日、明治天皇が、北海道から海路東京に還られたのを記念して行なわれてきた「海の記念日」にちなんでの、都内各地の行事のひとつとして催されたものであった。
【新橋の広場を埋め尽した「港まつり」】 この日、午後一時からはじまった式典につづいての演芸会に、広場を埋めつくした街の人びとの群れは、新橋駅ホームにまで溢れるほどであった。あいさつに立った中西区長は、地元商店街の熱意に敬意を表しながら、この祭りの意味を次のようにのべたのだった。
本日はこの新橋の地に多数の来賓を迎え、本区主催の下に地元各方面の御協賛と御援助をいただいて、盛大な港まつりの式を挙行いたしますことは主催者として洵に感激に堪えません。
東京港の地域は、江戸時代より東日本における海の玄関として、重要な地位を占めておりましたが、明治維新の後、明治十三年頃より東京港築港の議が叫ばれ、同三十九年に至って第一期隅田川改良工事として東京港修築の第一歩が着手されたのであります。爾来東京港の修築事業は、旧東京市の一大事業として努力に努力を重ね、大正十二年の関東大震災を契機として海上輸送におけるその重要性は一段と高められ、芝浦地先に出入する船舶はとみに激増して荷役の貨物は逐年急増の一途をたどることとなったのであります。かくのごとく東京港は時運の発展と共に逐次港湾の施設を整え、大正十四年に日の出桟橋の完成を見、昭和七年には芝浦岸壁ができ、また越えて昭和九年には竹芝桟橋が完成し、昭和十六年五月二十日をもって貿易港として開港されたのであります。戦時中における東京港は一部を軍用に使用され、終戦後は進駐軍に接収され一般貿易港としての活用が制限されましたが、目下東京都港湾局は戦後の施設整備のための五ヵ年計画を着々と実施に移して、世界の港としての東京港の完成を急いでいるのであります。東京港はわが国における六大重要港の一つであり、東日本の玄関、否日本の首都東京の海の玄関として東洋における海陸交通の要衝であります。わが港区が、その区名を港と称しますのも、本区が東京港の玄関に位するのに鑑みたものであって、東京港は正に港区の象徴なのであります。新日本発展の希望は、海洋を通じての世界貿易の発展であります。祖国日本の新たなる発展のために、大東京都の伸展のために、わが港区の繁栄のために世界の港としての大東京港の振興発展を衷心より祈念するものであります(『港区政ニュース昭和二十七年七月二十五日号』)
【商店装飾コンクール】 このころから、街を彩る商店街が、ひとつのまとまりと活気を取りもどしていった。つづいて夏に行なわれた「商店街コンクール」や秋の「第一回商業まつり」は、その表われといえよう。その商店街コンクールには次のような店舗が入賞した。
商店街美化運動の一端として都、区、商工会議所、商店街連合会共催で行われた商店装飾コンクールに港区では区予選の結果一団体二十店舗が参加し、左の通り副知事賞並びに商店連合会長賞を獲得した。
副知事賞
団体 三田商店街 個人 胡萩堂(新橋)
商店街連合会長賞
茨城製靴株式会社新橋支店、後藤文具店(新橋)、南星薬局(〃)、谷衣料店(〃)、セキネ洋品店(西応寺町)、桑山薬局(芝新堀町)、かづさや糸店(〃)、べにや小間物店(〃)、ニューやまと化粧品店(四国町)、角八堂洋品店(〃)、虎屋菓子店(君塚町)、更科そば屋(白金三光町)、玉木屋佃煮店(新橋)、岩田茶園(麻布坂下町)、フクヤ小間物店(〃)、マエ化粧品店(六本木)、虎屋生菓子店(赤坂表町)、塩野菓子店(赤坂田町)、帝都ミルク(榎坂町) (『港区政ニュース』昭和二十七年八月十一日号)
【第二回商業まつり】 また、新橋、麻布十番、赤坂一ッ木など区内三十数ヵ所の商店街が全面的に協力して、昭和二十八年十月に催した「第二回商業まつり」は、次のような企画にもとづいて盛大に行なわれた。
港区役所並びに港区商店街連合会では、区内の中小商店の結束により大資本の攻勢に対抗し、その振興発展をはかるという目的で、この十日から二十五日までの十六日間港区商業まつりと銘うって数々の催しを行なうことを計画しました。
これは一つには各商店の経済的振興をはかると同時に、一つには区民の皆様への優良商品の適正価格奉仕であって、区内商業の健全な発達と区の繁栄を最終の目的としているものであります。この催しには新橋をはじめ麻布十番、赤坂一ッ木など区内三十数ヵ所の全商店街の参加が予想されており、既にはなやかなポスターやそろいの提灯も用意されてにぎにぎしい蓋開けの日を待っています。この期間中は各地区とも大売出しや演芸会その他の催し物でお客の出足をさそい、サービスの向上をはかったり、消費者代表と商店側の懇談会を開いて、お互いの融和と理解を深めることなども予定され、最終日には優良従業員の表彰式、商祭記念式なども行なわれることになっています。 (『港区政ニュース』昭和二十八年十月十日号)
【行政の対応】 さらに、区内の消費者とも意思疎通をはかり、商店街の発展を積極的に推進しようという試みももたれたのである。
港区では、区内商店街の繁栄のために、買物はなるべく区内でと区民に呼びかけて来ましたが、十一月十六日から二十日まで、消費者は商店に何を望むかと題する座談会を、芝大神宮をはじめ、区内六ヵ所で開催しました。各会場とも奥さん方の出席は三十名程度、それぞれ地元商店街代表二十名と懇談しましたが、消費者側の注文の主要点は次のようなものでした。
① 正確な正札をつけてほしい。
② 気楽に品物を選べるようにしてほしい。デパートならば充分選択して、気に入らなければそのまま買
わないで出てこられるが、一般商店では直ぐに店員が寄ってくるし、品物がケースに入っているため、
気楽に入れない。
③ 商店街をもっと整備して、楽しく街を歩きながら買物ができるようにしてほしい。
④ 果物や乾物など箱や籠に入っている贈答品を買うとき内容を新しく詰めかえてほしい。
⑤ 生菓子その他食品の製造日付をはっきり明記してほしい。
⑥ 粗悪品や、色の落ちる布などがあるが、売った商品には責任をもって貰いたい。デパートなら取り換
えてくれるが商店ではしてくれないようだ。
そのほか特売デーや福引などについても、商店側にとってはなかなか手厳しい批判や希望などが続出しましたが、商店側からも、デフレ下における困難な経営状況について消費者側の理解を求め、できるだけ希望に添うよう善処したいとの話し合いがあって散会しました。 (『港区政ニュース昭和二十九年十一月三十日号』)
【商店の近代化―一斉休日】 そして昭和三十三年には、毎月一回一斉休日(二十日)がとられるように、商店街も甦った活気のなかに、ひとつの近代化を示していったのである。
商店の休日が問題となっている折柄、港区商店街連合会では、去る二月十日の常任理事会で、来たる四月から、毎月二十日を一斉休日に決めました。
労働基準法第三五条には、使用者は、労働者に対し、毎週少なくとも一回の休日を与えなければならないと明記してあります。
官公庁、会社、デパートなどは一週一回の休日を実施していますが、一般商店の現状では、毎週一回の休業はなかなか困難です。そこでとりあえず毎月一回は、商店街が一斉に休み、消費者の理解と業者の自覚によって、徐々に週休制にもって行く一段階として、この一斉休日を決めることになったのであります。
すでに新堀西応寺、麻布十番、魚藍銀座、三光豊沢、日赤通りなどの商店街では、一斉休日を実施しておりますが、他の商店街も、役員会を開いて、この区商連の決定を実施するよう努力しておりますので、来たる四月からは、各商店街が足並みを揃えて、二十日に一斉休日を実施するものと期待されています。どうか区民の皆さまも商店街の明朗化のため、計画的に買物をして、この一斉休日に御協力下さい。 (『港区政ニュース』昭和三十三年三月五日号)