(一) 変貌への序曲

706 ~ 707 / 1465ページ
 昭和三十三年十二月二十三日、元紅葉館跡(芝公園四丁目)に三三三メートル、世界一の「東京タワー」(総合電波塔)が建設された。付設された一五〇メートルの大展望台から港区の街がくっきりと一望され、そして東京の街々も遠望された。のち昭和四十二年に新設された二五〇メートルの特別展望台(展望料九五〇円)からは、さらに遠く関東一円が眺望されるところとなった。
 港区に、東京のそして日本の「名所」が一つ誕生したのだった。
 と同時にそれは、やがて昭和三十年代後半に展開されていったさまざまな変貌の、いわば序曲を奏でるその象徴を天空に指さすひとつのサインともなったのである。

建設中の東京タワー『東京タワー10年の歩み』より

 そしていまひとつ、昭和三十四年の秋から翌三十五年の夏にかけて、戦後史の曲がり角を告げた激烈な国民の抵抗運動の渦を示したいわゆる「安保闘争」の波が、アメリカ大使館のある港区の市街から消え失せていった直後の六月十九日、元赤坂町に新築された東宮御所へ、結婚間もない皇太子夫妻が移られたのを歓迎して、五〇〇〇の人びとが旗行列で迎えるという風景があった。
 
   港区元赤坂町の新しい東宮御所へ、六月十九日皇太子さまの御一家がお移りになりました。これをお祝いして、地元の赤坂地区町会連合会では、七月三日の日曜日、午前十時に青山中学校に集合、御所まで歓迎の旗行列を行ないました。梅雨晴れの暑い日でしたが、参加者は五千人をこえる盛況で、皇太子さまならびに美智子さまは、御所のベランダに何度もお立ちになって、区民の歓迎におこたえ下さいました。
            (『港区政ニュース』昭和三十五年七月十五日号)
 
 これもある明るさに向かう風景を示していったひとつのサインであったといえよう。なお、港区内には、高松宮、三笠宮、秩父宮などの皇族が多く住まわれている。