【首都高速道路の性格】

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 昭和三十四年四月、首都高速道路公団法が公布されたのは、そのための第一弾であった。ここに、名神、東名といった都市間(遠距離)高速道路が長距離の高遠短時間輸送をねらいにして建設されつつあったのとは別に、都市内の比較的距離の短い大量の交通・輸送の円滑な処理を重点目標にした道路計画が具体化されたのである。そしてその性格上、一般街路と分離された平面交差のないノンストップの自動車専用道路という形をとり、具体的には既存街路、河川敷地などの公共用地に高架式や埋立式などの高速道路が設計された。
【一号線の開通から現在へ】 首都高速道路として最初に供用されたのは、一号線(中央区宝町三丁目から港区海岸三丁目までの延長約四・五キロメートル)で、東京オリンピックを二年後にひかえた昭和三十七年二月のことである。その後、各路線の開通および区間延長、インターチェンジの設定、ランプ(連絡車道)の開設が進み、当区についてみると、昭和四十二年ごろまでに首都高速環状線、一号羽田線、二号目黒線、三号渋谷線、四号新宿線などが開通し、区内を縦横に走るようになった。また、高速道路と市街幹線道路とを接続する区内のインターチェンジは、谷町(六本木三丁目)、一ノ橋(東麻布三丁目)、浜崎橋(海岸一丁目)の三ヵ所に、ランプは汐留(インターチェンジもある)、芝公園、芝浦、飯倉、天現寺、高樹町の各所に設けられた。昭和五十一年度現在で区内を走る高速道路の総延長は約一五キロメートルにおよび、二三区中第一位の長さとなっている。なお、他の一般道路を含めた面積比率(道路率)は一八・七%で、やはり二三区中の上位を占めている。
【高速道路の美と醜】 航空写真で見る高速道路は、文字どおり都市の大動脈たるにふさわしい力強さと、ときには機能美すら感じさせるものである。しかし、ひとたび地上に降り立って眺めたとき事情は一変する。
 港区内を走る首都高速道路は、埋立地を平面式で走る東京水産大学(港南四丁目)付近と、元赤坂二丁目の迎賓館付近で地下にもぐっている(赤坂トンネル、約五〇〇メートル)ほかはすべて高架式である。
 住民にとって街なかの道路が拡張されたり、都市計画で道路が新設されたりした経験はあっても、家よりも高いところに道路がつくられトラックや乗用車が走るなど遠い未来の空想画以外思いもよらなかったことである。公共用地である既存道路や河川敷の上に建設されたといっても、人びとの困惑は変わらない。街並みの視界をさえぎり、屋根の上にのしかかるようにして走る高速道路を地上から眺めるとき、今度は街の景観を台無しにするグロテスクきわまりないものとなり、都市に安住空間をますます求めにくくなってしまった元凶として映ってくる。
 一方で、高架を支える橋脚の間に商店や事業所が置かれ、水防倉庫に利用されているところもある。また、空地を活用して児童遊園地としているところも珍しくはない。現代都市の市街風俗をよく表わしているものともいえよう。だが、頑丈で無骨な橋脚に囲まれ、頭の上から騒音と振動が絶え間なくおし寄せる遊園地で遊ぶこどもたちの姿にはむしろ荒涼とした感じを受けてしまう。空をおおわれた子供の遊び場に、現代都市の縮図を見る思いがする。