江戸の名残りを喪失した芝公園周辺

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 昭和二十一年八月、〝小平事件〟が起きたころの芝公園一帯は、戦災によって多くの樹木が焼けこげ、増上寺も本堂、五重塔、壮麗であった徳川霊廟などが焼け落ちたままで、荒れるにまかされていた。広場は、労働運動の興隆にともなって、各種労働団体の決起集会の場として使用され、総評会館、労働委員会会館などが時代の移り変わりを映すものとして登場してきた。
 しかし、広大な増上寺の境内は次第に狭くなり、東京タワーが建ち、ホテルが建ち、小公園や広場ができ、ゴルフ練習場建設などで古墳群は消えてしまった。江戸の名残りをとどめていたものは、戦災の打撃からの回復をまつまでもなく都市再開発の波にのみこまれていった。

増上寺本堂と日比谷通り。向うは三田国際ビル

 日比谷通りや第一京浜国道に沿ってビルが建ちはじまると、「大門」は交通の邪魔物として撤去の要望があがり、再建された芝大神宮は駐車場を併せもった建物になっていた。
 最近になると、郵便貯金会館ホールやabc会館ホールが演劇・演奏会場として、頻繁に人びとを集め、貿易センタービルをはじめビジネスビルが続々と建って、オフィス地区としての性格を帯びてきており、それにともなって、ワンルームマンションの建設が目立ってきたのも、この地の特色の変化を物語っている。