商店のビル化―新橋駅周辺

734 ~ 736 / 1465ページ
 昭和三十年代に入っても、新橋駅周辺は、木造二階建ての暫定的な建物が密集し、小さな飲食店を中心に雑然とした街並みであった。交通至便の都心地がこうした状態におしとどめられていたのは、皮肉なことに、戦後の首都復興方針にもとづく計画で、広場指定、道路拡張などを決めていたにもかかわらず、容易に具体化しない都市計画のためであった。
 昭和三十三年、高速道路建設が銀座方面から土橋―難波橋へとさしかかり、「新橋駅前広場築造事業」が同時に日程にのぼるにおよんで、にわかに波乱ぶくみとなっていった。高速道路下室収容問題から広場建設、道路拡張による立ち退き問題などをめぐってさまざまな思惑がうごめき、地元住民は利益擁護のため請願運動にたちあがった。「賛成」「反対」をめぐり地元、国(建設省)、都をまきこんで騒然となり、「高速道路は利権の巣」とまでいわれ、工事が一時ストップするなど事業計画は大幅に遅れたのだった。
 地元・国・都三者のたび重なる話合いなどの努力が続けられるなかで、昭和三十六年六月、いわゆる「市街地改造法」が制定され、駅前広場築造、道路拡張と高速道路建設はようやく実現のメドが立つにいたった。この法は、合理的な街づくりのために、公共施設の整備とともに、高層ビルを建てることで「立退き者」を収容し、買収方式よりも地元関係者の協力を得やすくするものであった。同年十二月、東京における「市街地改造法」適用の第一号として新橋駅周辺の整備が決定された。
 しかし、いったん適用が決まると、こんどは地主―家主―店子の複雑な権利・義務関係が表面にで、補償金をめぐる葛藤がくりひろげられた。この「改造法」が借家権者の保護をうたっていたため、地主・家主のなかには私有財産権の侵害であるとして猛反対にまわる者も出てきた。
 昭和四十年一月、地元の受入れ態勢がはやくまとまった東口地区から工事の着工がはじまった。西口地区は立ち退きなどの問題解決がおくれたため、昭和四十四年二月にようやく着工の運びとなった。
 こうして、戦後混乱期の象徴としての闇市(マーケット)の雰囲気をとどめていた駅周辺は近代的高層ビル、広場の建設によりその様相を一変させた。東口地区には九階建ての「新橋駅前ビル」二棟が昭和四十一年八月完成、西口地区には、計画変更のあと一棟の一一階建の「ニュー新橋ビル」が同四十四年二月に完成した。おのおのオフィスと大衆的な飲食店などが整然と同居するだけでなく、地下駐車場を備え(東口広場地下の駐車場は昭和四十七年三月完成)、広場も包摂し、地下街に地下鉄駅が直結する(東口)など機能的な街へと変貌を遂げていったのである。
 次に芝地区でもっとも戦災の被害が大きかった新橋から西新橋にかけては、復興の動きもはやく、外堀通りの両側には少しずつビルが立ちはじめ、商業地区・ビジネス地区として港区ではもっともはやく形成された。その余波を受けて、地元小学校の在校生が減少する現象がみられ、統廃合の運命をたどる小学校も出現したのだった。
 また、虎ノ門地区が大手企業のビルが集中していることに特色があるとすれば、西新橋地区は金融機関の支店の群れの街として、その個性を形成していったといえる。そして、ビジネス街化は、新橋―虎ノ門の線から、内堀通り、日比谷通りにそって南下する線へと変化し、多数の貸ビルが建てられ高層化が顕著となっている。
 また、駅周辺から線路ぞいにかけては、小さな飲食店が数多く見られ、大衆的な飲み屋街として根強い人気があり、青山や六本木とはまた違った活気のある街として親しまれている。