クリエーターの街――赤坂、青山・六本木

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 〝AAR地帯〟という言葉がある。いうまでもなく赤坂・青山・六本木の頭文字を連ねた、この三つの街の略称である。
 そしてこの〝AAR地帯〟と呼ばれる三つの街は、いまひとつ、〝クリエーターの街〟とも呼ばれることがある。それは一言でいえば、物を創り出す人びとや職業や店舗や企業の群がりによって、この街のひとつのメインが形成されている、ということから呼ばれていった一種の総称であるということである。
 そのひとつが、〝赤坂デザイン村〟と呼ばれる一群である。テレビや広告会社を中心としたデザイン、イラスト、服飾など産業美術関係に従事する人と企業とによって、街の一角が構成されていることへの象徴的な呼称であるといえよう。
 第二が、〝青山ファッション村〟である。いうまでもなく婦人服や帽子や靴などのファッション関係の店の群れによって街の一部が構成されているということである。
 そしていまひとつが、秋山庄太郎のスタジオやフジ写真フィルム本社やペンタックスギャラリーなどによって鮮やかに象徴されるいわゆる〝麻布写真村〟である。
 言葉をかえれば、日本の戦後の風俗は、ここ〝AAR地帯〟に群がる三つの〝村〟のクリエーターたちによって、創り出され支配されていった、ということもできよう。
 こうして、〝AAR地帯〟は、昭和二十年代には、東京の新しい街として、次いで昭和三十年代には、日本のなかでの新しい街として、そしてさらに昭和四十年代には、世界の赤坂・青山・六本木として知られ、存在していったのだった。
 港区の郷土史家俵元昭は、その発展を三段飛びにたとえて、次のように描いている。
 
   三段飛びにたとえれば、ホップ・ステップ・ジャンプの、ちょうどジャンプに当たるのがこの一〇年でした。
   ホップは東京のなかで、一種独得のふんい気をもつ町のようにみられ始めた時代、昭和二〇年代と考えればよいでしょう。ハーディ・バラックスが何やらバタ臭いふんい気を運んできました。麻布六本木から赤坂・青山・信濃町方向へかけての町並みに、戦前の兵隊屋敷風景が変わってしまった有様がはっきりみられました。
   そして、ワシントン・ハイツの影響で、神宮前あたりにも、スーベニイルショップなどが現われ、この地域が六本木から赤坂・青山へと変化が移っていたその先へ若者の町としてつながってくるのは、もう少しあとなのですがやはりその芽生えは、このころにあったといわなければならないでしょう。
   こうして、ホップの時代には、お屋敷と兵隊街の麻布、花柳界と自動車屋の赤坂、往還筋の青山という旧来のイメージが、戦後の新しい東京の町のうちでも新鮮なユニークさをもちはじめた時代でした。
   そのホップの時代のつぎが、ステップの時代。これは、赤坂・青山・六本木が、日本のなかでの新しい町になっていった時代です。ほぼ昭和三〇年代がそれに当たります。
   この時代に、六本木族といういい方も始まりました。俳優座ができ、加賀まりこさんが夜の探訪に現われ、そして『六本木心中』という小説がもてはやされました。赤坂にはTBSの前身ラジオ東京がテレビの放送をはじめ、江戸時代の時の鐘で有名だった成満寺が一朝にしてゴールデン赤坂というキャバレー(ゴールデン月世界)に変わりました。そして見付には、立体交差と高速道路が重なって出現、青山は立体換地とやらで新しい都市計画のもとに当時の日本で最も完備した道路といわれる通りに生まれ変わったのです。
   この東京オリンピック開催にともなう公共投資によって、新しい青山のイメージが定着、第二の銀座になるか、と都市社会学者にいわれたりしているうちに、いつのまにか東京の赤坂・青山・六本木は、日本の赤坂・青山・六本木になりおおせていたのです。
   そして、最近の一〇年が、ジャンプの時代です。すなわち、世界の赤坂・青山・六本木、そして原宿となった時代です。(『あかさか・あおやま・ろっぽんぎ』昭和五十年七月一日号)
 
 世界のそれとは、たんに世界中の料理がすべて食べられるということや服飾その他の商品が、この街に集められているということだけではなく、世界中から商店そのものが自分でやってきたということである。
 こうして〝クリエーターの街〟赤坂・青山・六本木を中心とする新しい街は、そのまま東京のプレイタウンとしても存在していったのである。
 なお、青山には、いまひとつの新しい街の顔としての〝スーパーの見本市〟とも呼ばれる、日本の高級スーパーマーケットの元祖が一群をなしているところがある。紀伊国屋、ユアーズ、三越バラエティ・ストア、東急ストア、ピーコックなどがそれである。日本で最初にスーパーマーケットが出店したのも、この地青山であった。
 ところで、こうした新しい街が誕生し、形成されていった陰には、この街の復興に向けての戦後におけるさまざまな構想と努力があったのだった。
 たとえば、昭和二十一年十月、戦災復興院の告示にもとづく、東京都の土地区画整理施行地区に選定された麻布六本木、三河台町の住民が都内第一号の名のりとともに、麻布第一復興区画整理組合を結成し、直ちに六本木の区画整理に着手したことなど、昭和三十年代に早くもこんにちの発展の基礎を築いたことにもこのことがうかがわれよう。
 六本木交差点北角に建てられている楽器をかかえた少女の像「楽(かな)でる乙女の像」(本郷新作)は、この地区の区画整理完成記念に建てられた想い出の記念碑である。
 もともとこのあたりは、いわゆる軍隊の街といわれ、麻布歩兵三連隊、同歩兵一連隊、麻布連隊区司令部、第一師団司令部、赤坂憲兵隊本部、近衛歩兵三連隊、陸軍大学校などがあったところである。街にはのぼり、旗、奉公袋その他軍隊関係のものを売る店と青山墓地をとりまく石屋が点在して、晴れた日には馬糞が舞いあがり、朝夕兵営からラッパの音が響きわたるような街であった。戦後には歩兵一連隊跡(赤坂九丁目)に占領軍が進駐し、昭和三十五年一月から防衛庁か置かれたとはいえ、この付近の激変には、やはり驚かざるをえない。
 なお、港区における個性的な風土を示すものに、さまざまな名前のついた多くの〝坂〟がある。石川悌二『東京の坂道』によると、東京の坂四八六のうち、一〇八が港区に存在すると記されており、いまだ未確認の坂もあるとはいえ、いかに〝坂〟によって街が形成されているかがしらされよう。
 そしていまひとつ、明治五年に創設され、歴代総理大臣の四分の一にあたる一〇人が葬られているのをはじめ、数多くの文人、軍人、実業家、芸能人、科学者などのいわゆる著名人が眠る青山墓地(正しくは青山霊園)が、広大な広がりをもって、街の中心部に存在しているということである。その中央の参道が、昭和四十七年の夏ごろから、タクシーの運転手のいわば〝休憩所〟とされ、食事時になるとさまざまな食べ物屋の屋台が立ち並び、こんにちのひとつの風景を描き出している。