(二) 戦後

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 太平洋戦争後、諸種の制度が改廃され社会が激しく揺れ動いたなかで、人口移動のパターンと人口に関する行政も大きく変化したことが指摘できるだろう。
 戦後の戦災復興への過程で、まず大きな問題となったのは、都市部への急激な人口流入であった。疎開地からもどる者や、復員がそれに拍車をかけた。
 その対策として、昭和二十一年(一九四六)三月から都会地転入抑制が行なわれていた。
 しかし、それにもかかわらず都市の人口は、増加をつづけており、この抑制臨時措置令の効果は疑わしいものであった。
【戦後の人口の集中】 戦前とはちがって戦後には、とにかく都会へ出ようという社会風潮のなかでの都市への人口集中といった様相が濃くなり、地域特性を中心とした人口定着の原理があいまいになったともいえる時期であった。
 こういう状況のもとで、翌二十二年三月、三区統合の結果、新しい「港区」が誕生したのであるが、東京全体の趨勢と同じように、さまざまな特色をもった地域が行政上の都合でひとつに統合されてしまったため、その特色が相殺され区全体としては、平均的な特性しか出せなくなってしまった。
 しかし、その地域的つながりのため、港区は千代田区、中央区とともに、「都心部」を構成していき、都心区としての社会的・経済的な特徴をみせていくと同時に、人口的にも都心区の性格を見せはじめる。
 昭和二十年の十月に行なわれる予定であった国勢調査は取りやめられたが、人口構成を緊急に把握する必要に迫られて、昭和二十二年十月に行なわれた。この国勢調査は同二十五年からは常態に復する。
【転入抑制の解除】 また、社会情勢がそれなりに安定化のきざしをみせはじめたため、転入の抑制は昭和二十四年一月一日から解除されたのである。
 これによって、人口移動は流出入が自由に行なわれるようになり、人口の面における自然な復興ぶりがみられるようになる時期は、このときからであった。
 東京都は、急激な人口の増加に対応する施策の基礎作業として、昭和二十六年(一九五一)十一月に一ヵ月間、戦後最初の移動人口の調査を行なった。
 いわゆる「人口動態」の把握のための調査であったが、その後も、昭和二十七年二月、昭和三十一年五月、同年十月、昭和三十二年四月と、たてつづけに実施しており、当時の人口対策の苦悩ぶりがうかがい知られるようである。
 港区は、この調査当時、地域が都心であったためか、増加の数は自然増とあまり大差なく、その後の社会減といった現象をみせるまでのひとつの傾向であった。
【新しい戸籍法】 また、戦後の民法の改正とともに、新しい戸籍法(夫婦およびそれと氏を同じくする子をもって戸籍を編成することになった)が施行され、昭和二十三年から行なわれた。
【住民登録法の実施】 さらに、この制度の改正の動きは、昭和二十一年六月に公布された「住民登録法」に問題をなげかけ、この法律は実施が遅れたため、昭和二十七年七月一日からとなったのである。
 この法律は、「住民の居住関係を公証し、日常生活の利便をはかり、つねに人口の状況を明らかにし、各種行政事務の適正で簡易な処理に資する」ことを目的としていた。
【住民登録人口】 これは実際には、印鑑証明、扶養家族の証明、住所の証明、同居の証明、本籍の証明などのほか、選挙人名簿の作成、配給、徴税、就学、公衆衛生、民生、犯罪捜査、交通、建設などの面でも役立っており、人口に関する資料としては、もっとも基礎的なものであり、よく「住民登録人口」として使われることになったのである。
 また、歴史的に外国大使館の多い港区にあっては、外国人登録法にもとづく登録事務(区長への国の機関委任事務)は大事な行政事務である。
【外国人登録法】 これ以前には、昭和二十二年(一九四七)施行の外国人登録令があったが、敗戦直後のことでもあり、非常に混乱した登録が行なわれざるをえず、外国人登録法によって、ようやく正しい把握が可能となった(登録令が登録法になったのは昭和二十七年四月のことである)。港区は、とくに欧米系の外国人が多数居住する地域であり、この面でも特徴がある。
 このほかに人口把握の資料としては、戦後の食糧配給を主目的とする「都民世帯票条例」があったが、これは昭和二十七年七月十九日、住民登録法施行と同時に、東京都の「食糧配給台帳の登録等に関する規則」施行によって廃された。
 いうまでもなく、「住民登録法」施行により、「世帯票」の意味がなくなったためである。食糧登録人口も統計資料として、発表されている。