区行政機構の改革

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 本庁舎の移転決定後の二十二年十二月中旬、区長は、難航していた行政機構改革案をとりまとめた。そして、十二月十七日、区議会総務委員会に港区課及び事務分掌に関する条例案の事前審査を要請した。
 この条例案では、港区区長室を廃止して、区役所本庁を総務、財政、税務など一〇課から構成するとなっていた。ところが、この成案とりまとめまでには次の経緯があった。すなわち井手区長は、当初、区役所本庁に部制をしくことを考え、職員組合との協議機関である「業務協議会」に素案を呈示した。だが、課制を相当とする組合の主張の前に合意が得られず、結局、組合の要望を入れた形の右の機構案が、理事者案としてまとめられたのである。
【港区課及び事務分掌条例】 さて、右の港区課及び事務分掌条例は、十二月二十三日、第三回定例会本会議に正式に上程された。提案説明にあたった井手区長は、事務の総合的運営と芝支所廃止にともなう窓口事務の処理のために、本庁機構を一〇課組織としたいこと、この組織案は、職員組合との調整を経た成案であることを述べた。ところが、区長説明の直後丸山湊総務委員長が「議案第二十九号東京港都区課及び事務分掌に関する条例制定については部制を設置することを適当と認め別紙の通り修正する」との修正動議を提出した。
【二十二年十二月の港区行政組織】 丸山委員長が修正動議として提出した港区行政組織案は、本庁組織に部制を導入し総務、教育衛生、民生の三部一〇課をもって組織するものであり、それは井手区長が、かつて業務協議会に提出した素案と同一であった。このため本会議は、区長と組合との合意を尊重するべきであるとの意見が出され紛糾したが、修正動議は即日可決され、新生港区は、旧芝区役所を本庁舎とし図1のような組織のもとに、歩み始めることになった。

図1 港区行政組織(昭和22年12月2日改正)

(注) この後昭和25年までの間の大きな改革としては,昭和23年に都保健所設置につき,本庁衛生課ならびに支所衛生課の廃止がある。なお,これにともない,教育衛生部は教育部となった。また,25年には支所経済課が廃止された。
 
 この結果、港区は、二二区中唯一の部制をしく区となったが、当時の井手区長は後に、その事情を次のように述懐している。「区は独立の自治体となった。区の職員のトップが課長では、都と対等に交渉することができない。区の権威と職員の意欲の向上のために、私は部制をしくべきであると考えた」と。
 しかし、井手区長の意図とは逆に、社会、共産両党議員はもとより、後には、保守系議員のなかからも、部制は屋上屋を重ねるものであり、住民の福祉につながらないとして、その廃止と支所・出張所の権限拡充を求めた批判が繰り返し区長に提出された。