二十二年四月の教育基本法、学校教育法の施行によって、わが国の義務教育は小学校六年、中学校三年と定められ、さらに小・中学校施設の設置は市区町村立を原則とするとされた。
港区のみならず六・三制への対応は、戦後市町村行政の重要課題であったが、本区は、戦災によって小学校施設の多くを失っていた。港区は二部授業を実施しつつ、まず小学校校舎の建設から着手した。中学校も一〇校が新設されたものの財政難から独自の校舎建設まで手がまわらず、廃校となった愛宕小学校を利用した愛宕中学校以外の他の九校は、いずれも小学校に併設された。区が中学校の校舎建設に着手するのは、二十四年からである。
小・中学校建設が一段落をみたのは、昭和三〇年代に入ってのことであるが、この間、小・中学校建設用地の取得や建設費の確保のために、議会と理事者は足並みを揃えて、都教育局ならびに政府への陳情を活発に展開した。
港区のばあい、小学校建設における二部授業の解消は他区に較べ比較的早く進んだ。これは区営競馬収益金を小学校建設に重点的に投資したことによる。
けれども、区教育行政の課題は、小・中学校校舎の建設に尽きるものではなかった。区は、小学校校舎内に居住する教員の住宅確保、学校備品の拡充、小・中学校への事務職員の配置、教育研究費の支出など多数の問題を抱えていた。だが、当時の区財政力では、これらの問題に十分対処することは不可能に近かった。このため区は教育行政経費の相当額を、PTA会費ならびに寄付金に依存せざるをえなかったが区民生活の窮乏ゆえに父兄の負担もまた大きかった。
これらの問題は、区議会でもとりあげられ、区議会は理事者に父兄負担の改善を求めつつ、他方、都に対して二十四年三月三十日に「義務教育費の都予算増額に関する意見書」を決議し送付した。