麻布地区土地区画整理事業は、昭和二十一年に都の戦災復興計画の一環として立案されたが、着手されなかった。ところが、二十八年四月、東京都第一区画整理事務所長は、区長に口頭をもって事業計画と町名変更案を示した。区議会総務および建設の両委員会は、三十年まで一四回にわたってこの案の合同検討会を重ねたが、地元に反対の声が強く結論を出すに至らなかった。
三十年三月十九日、都知事は、区議会議長に文書をもって、町区域の設定ならびに町名変更について諮問してきた。区議会は、三十年三月二十二日の全員協議会において諮問案を承認し、区議会議長は、町名存続の請願が三二名の紹介議員によって提出されていることを申し添え右の決定を都知事に答申した。
この決定後も区民の間に反対の声があったが、区議会の同意によって麻布地区の町名変更が四十一年四月に着手された。だが、狸穴・永坂・森元町と飯倉町四丁目の四町が五十三年九月現在依然として未解決のままとなっている。