高速道路建設問題

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 東京オリンピック開催を契機に首都高速道路公団の手によって、高速道路網が建設されることになった。港区には計画上、道路総延長の約二〇%が集中していた。高速道路基本計画が都議会において議決されたのは、三十四年十月七日である。だが、これに先立つ三十三年末に、港区内では、一号線、二号線建設予定地住民によって反対期成同盟が組織された。
【高速道路対策特別委が発足】 区議会は、三十四年二月二十七日の第一回臨時会本会議において「高速道路の必要性は認めるも、住民の納得の行く建設計画に変更してもらうべく」高速道路対策特別委員会を設置した(同委員会は区議選後の六月二十六日に再度設置をみた)。区議会は、同委員会を中心として建設計画の研究、反対同盟住民との懇談、講演会などを開いた。

建設進む区内の高速道路工事現場(昭和32年12月)

 都建設局長は、三十四年十月十五日、区長に高速道路建設に関する都・区・公団・関係住民の四者協議機関の設置を申し入れる。区長と区議会はこれを受け入れ、まず一号線協議会が同年十二月に設置された。区長ならびに区議会のこの問題に関する基本方針は、この協議会を活用して首都高速道路公団、都当局に関係住民の利益が保護されるよう補償、設計変更などを求めることであった。それゆえ、区長と区議会は、前記協議会に委員を出すとともに、二号線分岐線、三号線関係住民に協議会の結成を働きかけた。
 しかし、この方針はかならずしも公団に受け入れられず、公団は一号線関係住民と個別に交渉し補償方法を決めていった。このため、港区議会は、三十五年十月五日「首都高速道路公団に対する抗議書」を決議、送付し、「正規な協議機関を通じて、円満裡な解決」をはかるように求めた。一方、二号分岐線、三号線については、区議会は反対期成同盟との協議の結果、地下道化を要求することとし、公団との交渉を重ねた。
 だが、右の三路線のいずれもが着工をみた三十七年に入ると、補償問題も次第に片付いた。そこで、港区議会は、三十七年十二月十三日、「現今の交通状態の実情に照らし、また、来たるオリンピックの関連街路整備のための道路拡幅の已むを得ざる事情をも考慮し」計画を認めるが、「強制執行等はいたさぬよう重ねて要望します」との「高速道路建設に関する意見書」を公団をはじめ関係方面に送付して、事実上この問題についての活動に終止符を打った。