四十年四月の事務移譲後、各区で区長公選運動が起きた。港区でも、四十年十二月十八日ならびに二十日に三件の「区長公選実現方等に関する請願」が区民から区議会に提出された。
このような状況下の四十年十二月二十六日、小田区長の任期が満了となった。港区議会は、区長の任期満了が迫った十二月六日、「時恰かも、任期満了により、当区の区長選任が、目捷の間にあるとき、当港区議会は、区長公選制復活について、満場一致をもって更にこれを再確認し、所期の目的達成に、強力な運動展開を誓うものである」との「区長公選制復活に関する決議」を行なった。さらに、十二月二十三日には、「私達は皆様と共に区長公選制度をかちとり、本当に区民のための区政を実現したいと思います」とのビラ七万枚を区民に配布し、決意の堅いことを表明した。
【「区長問題対策特別委員会」の設置と区長候補者公募】 四十年十二月二十五日の各派幹事長会は、できうるかぎり公選制に近い形で、区長選任を行なうことを合意した。その方法の検討のために、同日の本会議において、港区長問題対策特別委員会が設置された。同委員会はとりあえず、区長候補者の公募を決定、その旨をポスターによって十二月二十八日に公示し、翌四十一年一月十日に締め切った。この候補者公募には、小田清一、窪田みつ、奥山孝門の三名が応募した。ところが、区議会各派は、三名の立候補者からどのようにして区長候補者を決定するかをめぐって意見を異にした。社会党、公明党を中心とする革新系議員は、公募の不徹底さを指摘しつつも、この三名を前提として模擬区長選、アンケート、公聴会の開催などによる民意の反映を提案した。だがそれらは、議会で政見を聞けば十分だとする保守系議員によって否決された。このようななかで、まず窪田が立候補を辞退し、次いで奥山が区議会に失望したとの談話を『読売新聞』に寄せ立候補を辞退した。
結局、区議会は、四十一年一月二十一日に、小田清一の政見を議会内で聞くことになる。そして、政見発表後の同日の区長問題特別委員会は、小田清一を区長候補者に決定した。さらにこの日、引き続き開かれた本会議において、小田清一は賛成多数によって区長候補者に決定され、都知事の同意を得た翌一月二十二日、区長に選任されたのである。