【準公選条例運動の発生】 小田区長の任期は、四十五年一月二十五日をもって満了となった。このころ、二三区における区長公選回復運動は、新たな展開をみていた。すなわち、練馬区では、四十二年九月に「区長を選ぶ練馬区民の会」が結成され、いわゆる「区長準公選条例」制定の直接請求運動が起きた。この練馬区に始まる運動は他区にも波及した。四十五年には、荒川、杉並、北の各区、四十六年には、葛飾、世田谷の二区に準公選条例制定運動が起こり、また、同年中野区では、反自民五派連合によって「準公選条例」が初めて可決をみた。
ところで、こうした状況下の四十四年十一月十八日、港区議会は港区長問題対策特別委員会を設置し、区長選任方法に検討を加えることになった。だが、同委員会は翌四十五年一月末に至っても具体的方法を立案しなかった。この間に小田区長の任期は満了し、総務部長が区長職務代理を勤めることになった。
同年二月に入り開催される区長問題特別委員会では、社会党から準公選条例の制定が、公明党から区長選任基準を定める区長憲章の制定が提案された。だが、自民党は、それらの採用はいずれも時期尚早であると反対し、結局、港区議会は、「区民の意見を聞く会」の開催と議員推薦を条件とした区長候補者の公募を行なうことを五月に入って決定した。
五月二十日、二十一日の両日、区議会は「区民の意見を聞く会」を開催し、さらに二十三日から二十七日まで区長候補者を公募した。だが、応募者は小田清一前区長だけであった。この扱いをめぐって、無競争当選とする自民党と、公募はあくまで選任の一手段であり、即小田を区長候補とはできない、小田を含めてさらに検討するべきである、とする社会党との間に論争が交わされた。しかし、右の特別委員会は、五月二十九日の委員会において、区議会で小田の政見をきくことにした。その政見発表後、自民党、民社党、公明党、革新クラブ議員団は、小田支持を表明したが、社会・共産の両党は態度を留保した。
六月三日の第一回臨時会に本会議、議員二九名の共同提案として、小田清一を次期港区長候補者に定める議案が提出され可決をみた。さらに、六月八日の本会議において、都知事の同意を得たことが報告され選任投票が行なわれ、小田清一が区長に選任された。この投票において共産党は反対票を投じたが、社会党は白票を投じ態度を留保した。この区長選任は、区政史上最後の区議会による選任であった。