東京を府県単位で比較してみると、第一次産業はきわめて少なく、第三次産業が過半数以上を占め、その割合は際立っている。第一次産業の縮小にともない、他の産業部門、とくに第三次産業が拡大しているわけだが、このことは産業の高度化を意味しており、東京の産業の大きな特色となっている。
さらに、就業者の内訳でみると、いわゆるホワイトカラーのなかでも専門技術者や管理者層が際立った厚味をもっていることが注目される。
また、東京は政治的中心であると同時に、経済的中心地であり、教育・文化の中心地でもあるため、これらに関連した産業に従事する人口も相対的に一番多いことになる。
やや時代はさかのぼるが、昭和七年(一九三二)に東京市は隣接八二ヵ町村を合併し、市域を大幅に拡大した。その時には、新市域に農業地帯がかなり残存しており、かつ住宅地帯も多く含まれていたが、旧市域は優れて商工業的な地域であった。
旧市域の商業では、卸売業の比重が高く、その規模も比較的大きかったが、工業は軽工業に比重がかかっており、規模において多くは中小または零細経営であった。
【工業とその特徴】 しかし、太平洋戦争中に工業の比重が増大する一方、商業のそれが縮小し、東京の工業のうちでもとくに発展したのは重化学工業であった。
戦後、商業が相対的に伸長し、工業のうちでは重化学工業の比重が低下したが、それでも戦前にくらべれば、この比重はかなり大きくなっている。商業の比重がかなり大きくなった背景としては、物資の流通拡大が見逃せないことであろう。
【商業の台頭】 東京が東日本一帯における商品集散の中心地であることは周知のとおりであるが、東日本というよりも、ますます全国的シェアを拡大しているのが現状であり、国内の商業のみならず貿易を軸として国際経済の中枢となった。
小売業の商圏は、首都圏といわれる東京だけに限定されるのであるが。卸売業はいまや各種商社を通じて、国際市場圏を構成するに至っている。
【芝浦食肉市場】 また、元来都民の生鮮食料品を供給するために設立された中央卸売市場が、隣接諸県ばかりでなく、関東・甲信越にたいする集散機能をもつに至っているし、当港区にはそれに該当するものとして芝浦の食肉市場がある。
戦後の消費市場的性格は、都心に通ずる交通網の発達に促されていっそう進展し、中核となる小売業の伸長も大阪をはるかに引き離して日本でも最大の規模を誇るに至っている。前述した工業は、京浜・京葉工業地帯がベルト状に発展してきており、当港区もその一翼を担っているが、荒川、隅田川沿いのそれにくらべて、芝浦港南地区を中心に重装備の重化学工業としての特徴をもみせている。
国際経済の拠点としての東京の性格が明確となってきた現在、外国の通商代表部をはじめとする外国公館等が圧倒的に東京に集中している(当港区はなかでもそれらの数において他市区より抜きんでている)ことはいうまでもないが、東京の貿易取引はとくに、戦後日本の貿易のなかで占める比重を著しく増し、現在では輸出・輸入額の過半数以上が東京に集中している。それにともなって取引の場としての東京の機能は、ますます増大することになった。
これは港湾(東京港)が存在することで貿易が拡大しやすかったというだけではなく、いわゆる中枢管理機能や、通信網の整備、交通網の整備、さらには情報産業の新規成立といった関連において理解する必要がある。
ここでは、これらを日本の三大都市圏で比較してみよう。
【三大都市圏】 東京は、生産の場であるより、むしろ消費の場、管理の場であり、取引・金融の場である。東京経済の性格は、その中枢管理性、国際性において国民経済の中心地であるとともに、国際関係の接点を形成しているところに求めることができる。
巨大資本は、全国を一元化しながら同時に日本の産業の民族的封鎖性を乗りこえて、国際市場の一員として活躍の舞台を拡大していく。巨大資本の本拠と管理の場は東京に中枢化しつつ集積され、そのことは同時に、それに関わりをもつ人々の生活の場としての経済が営まれることにもなる。
【世界貿易センタービル】 当港区にも、その一つのシンボルとして、昭和四十五年三月、世界貿易センタービルが建てられたのである。さて、三大都市圏・地方圏別工業および商業機能の集中度の推移ならびに中枢管理機能の集積度の推移をみてみよう。