【都教育研究指定校】 新学制の実施にともなって、いわゆる「新教育」が現場に広まった。指導助言の中央教育行政機関でもある文部省は、昭和二十二年に学習指導要領試案を示し新教育の範型を示して現場の模索に資料を提供した。当時の「新教育」の基本的性格は、アメリカのプログレッシブの教育思想の影響が強く児童の自主性を重んずる考え方は、戦前の画一的な詰め込み教育に馴らされた教師たちに新鮮な感覚でうけとられた。
本区においては、氷川小学校(学校図書館)、高輪台小学校(児童化学室)、朝日中学校(職業指導)の三校が最初に東京都研究指定校として先進的な試みを行なった。さらに、当時「桜田プラン」と呼ばれた桜田小学校の社会科、愛宕中学校のホーム・ルーム・システムなど区内には特徴ある学校が多く、都内の教師たちのみならず全国から多数の視察者があり注目された。当時、全国にも知られた桜田小学校の「桜田プラン」に参加していた樋口澄雄氏は当時のとりくみを、以下のように回顧している。
「桜田は、新橋駅南口近くにある。戦前は花柳界と飲食店街にかこまれた学校であった。……それが戦災によって全くやかれ、終戦と同時に闇市の本場と化したのである。……子どもは夜おそくまで闇市をぶらつく。大人たちの悪を見聞する。家庭内も異様な雰囲気の中で新しい立ち上がりに懸命、子どもどころではない。……こうした外部条件に加わって、司令部命令によって、教科書は墨にぬられ、これという目やすももたない教育を腹のへったからだで支えねばならないという有様であった。『この子どもたちの教育内容をどう考えたらよいか』これが私たちの命題であった。
こうした内外の圧力の中で『子どもを守ろう』と期せずして発奮したのが、当時の桜田の十七人の教師たちだったのである。……(中略)……私たちも家庭の生活の不如意を忘れて、これに没頭した。戦前に味わえなかった、新鮮な教師と子どもの関係をはじめて知って、ほんとに『自分たちは教師である』という喜びを喜びあったのである。」(梅根悟・岡津守彦編『社会科教育のあゆみ』――新教育の実践体系Ⅱ――昭和三十四年刊より)