敗戦から昭和三十年代初頭にかけての港区教育行政の最大の課題は、前項で明らかにしたように、区教育行政機構の民主的改革を基軸に、戦災校舎の復興ならびに新制義務教育制度発足にともなう学校教育施設の建設にその全力を傾注することであった。
本項でのべようとする昭和三十年代初頭から同四十年代初頭にかけての、いわば第二期ともいうべき港区の教育行政は、「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」の制定(昭和三十一年六月)にもとづいて再編された区教育行政機構のもとに、戦後初期港区教育行政の最大の課題であった学校教育施設の建設をさらにいっそう推進することにその主眼をおいたことはいうまでもない。とくに、池田勇人内閣(昭和三十五年~同三十九年)によって推進された高度経済成長政策を背景とした学校教育施設の質的充実への努力は、この時期の港区教育行政の最も注目すべき事実といわなければならない。この点を予算規模に則してみれば、確かに一般会計予算に占める教育予算の割合こそ従来と大きな違いを示してはいないものの、その金額においては、昭和三十二年度の約三億三千万円から昭和四十二年度の約二十二億円へと十年間に約七倍の激増ぶりを示しているのである。このような予算規模の増大が港区学校教育の質的充実施策を可能ならしめたのであり、つぎにそうした質的充実のための諸施策が具体的にいかなる形態をもって展開されたのかを区教育行政機構、学校教育施設の建設、教育福祉に関して、それぞれ概観することにする。