(2) 青年団体・少年団体

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【青年団体】 本区内には、同好サークル、職域団体など約一〇〇の青年団体・サークルがあり、青年館、小・中学校、サークル員の自宅、屋外等で、会場に苦慮しながらも多様な活動を展開している。
 こんにちでは、同好サークル、職域団体が中心となっているが、いわゆる「高度経済成長」期の前半までは、地域の「青年会」活動が活発に行なわれていた。「青年会」は、昭和二十六年には三〇あり、昭和三十一年、三十四年ともに二三青年会が存在し、地域の文化と青年のつながりの中心であった。高度経済成長期をとおしての社会的変貌が及ぼした影響によって、地元青年の連帯と、団体としての地域への貢献が困難になったと考えられる。
 青年団体は、横の連絡を図ろうと、昭和四十二年一月に「第一回港区青年サークル交歓会」をひらき、さらに十月には「港区青年サークル連合」という恒常的な連絡機関をつくり出した。
 昭和四十四年には区内の音楽サークルが、音楽をとおしての仲間づくりをめざして、第一回「港区青年音楽サークル交歓会」を行なった。
 昭和四十二~四十四年、四十七年には、青年団体の実情と要求をつかむために委託調査を行なった。
 この調査の示すところであるが、青年団体が気軽で安く使える便利な施設の不足、指導者の不足等がいわれ、青年団体が活動していくための条件整備は行政に課せられた急務である。
【その他の青年社会教育 青少年コンサート】 このほか、昭和四十五年には「管弦楽教育」(四日間コース、フルート・クラリネット・トランペッ卜)、さらに、昭和四十四年にスタートした「青少年コンサート」がある。
 青少年コンサートは、次代を担う青少年の情操教育を目的として実施し、昭和五十二年七月で一〇〇回を数えるに至っている。
【少年団体】 高度経済成長政策にともなう都市化と「都市再開発」などによる変化は、各方面にみられるが、子ども会はその影響を強くうけている。区教育委員会が掌握しえた範囲でその数の変化をみてみると、昭和二十七年に一九の子ども会があったが、昭和三十一年には三一、昭和三十四年には五五であった。それが昭和四十三年には三七の子ども会に、数が減少してこんにちに至っている。
 これは、環境の悪化によって、場所がないなどの理由により解散せざるをえなくなったと思われる。このほかに、受験体制の影響(塾がよいによる時間的問題など)や、地区内での指導者の欠如などの原因をあげることができる。
 こうした地域の子ども会の意義を考えると、大人の側での計画的な配慮が、こんにちこそ望まれる。
 昭和四十年代に入って、こうした要請にかんがみ、夏休みの「緑陰子ども会」「縁陰子ども写生会」などを、自然のなかでの有意義な活動として区側は催した。「緑陰子ども会」は、昭和四十七年からは「夏休み子ども会」として行なっている。
 さらに、昭和四十九年から、活発な少年団体の活動の中心となるインリーダーを区行政が育成していく方向で、「ミナトジュニアクラブ」を開設した(中学生対象)。そして、アウトリーダーの発掘と養成および資質向上をめざして、「少年団体指導者研修」も行なっている。
 このほか、区内には外国の大公使館が多く存在することから、国際交流を図り、あわせて各子ども会のリーダーの連絡を密にすることを目的として、昭和四十三年度から「国際子ども運動会」を開いている。
 すべての子どもたちの、健康で豊かな成長が切実に望まれているこんにちこそ、校外での子どもの集団活動、そのなかでの自然とのふれあいや仲間との友情あふれる生活の充実が期待される。そのために、地域子ども会の発展が援助されなければならない。