港区地域でも終戦とほとんど同時に労働者は、労働組合の結成に乗り出し、戦後の民主化を下から進める社会的な勢力へと成長していった。
【地域労働運動の先駆―品川検車区】 国鉄の品川検車区(現在の客貨車区)で当時五分の一を占めていた女子職員・臨時職員が、最初に立ち上がった。戦時中の軍隊組織そのままのやり方と身分的な差別待遇への反発と、生活上の切実な要求とを結びつけて、①命令ずくめの仕事のやり方をやめること、②作業服を支給すること、(3)夜食の支給といった要求を掲げたのであった。
【品川機関区労組が発足】 この動きに触発されて、昭和二十年(一九四五)十月十五日、国鉄品川機関区労働組合(杉崎吉彦ほか三八六名)が発足したのを皮切りに、より組織的な運動が進められることになった。次いで田町・品川をはじめとする電車区の労働者たちが、同年十二月二十九日に芝区高輪台国民学校(現港区立高輪台小学校)で東京鉄道局管内の一三の電車区を結集した鉄道委員会(これは戦前に当局が労働組合にかわるものとして組織した上からの労働者組織だった)を再建して、田町電車区の鈴木勝男がその委員長に選ばれた。彼は戦前の国鉄労働者の闘いの影響をうけた一人でもあった。事務所も田町電車区におかれたが、それは老朽電車を利用したものであった。
【品川電車区などに分会の結成続く】 翌二十一年に入ると、一月二十一日に品川電車区分会(若山和士郎ほか三六一名)、新橋建築区分会(小島彪義ほか二三二名)、四月二日に東京信号工事区分会(塚本建ほか五六名)、同月十五日に浜松町駅分会(大竹正栄ほか二九名)と田町駅分会(今井長吉ほか七二名)、翌十六日に汐留変電区分会(永塚清ほか一七名)、同月二十五日に品川車掌区分会(深川弘信ほか二〇〇名)、翌二十六日に品川駅分会(木下吉長ほか五五六名)、五月十七日に品川客車区分会(上野重信ほか一〇九九名)、同月二十一日に芝浦駅分会(小林忠三郎ほか二〇一名)、六月一日に田町電車区分会(中島正ほか三四九名)、同日汐留検車区分会(広田獅子雄ほか六〇名)、六月十五日に品川電務区分会(加藤義明ほか一〇五名)、十一月一日に品川電車区分会(菊地法夫ほか九四名)がそれぞれ結成された。
このあと同年十二月二十五日、以上組織されてきた港区地域をはじめとする東鉄局内の組織をもって国鉄労組新橋支部(歌沢藤作ほか一万三三一八名)が編制されたのである(ただし、以上の各組織名や代表者および人員などは、三田労政事務所が昭和二十六年八月現在までの時点で調査したものであり、設立当時のものではない。)。
【逓信労働者も組織化へ】 国鉄とならんで戦後の公共企業体の労働運動の一大勢力になった逓信労働者も、昭和二十年年九月下旬ごろから、東京都内で戦前の運動を経験した指導者の間から、組合づくりが進められた。「終戦間もない時の郵便集配員はみじめなものであった。配達に行くにも自転車がない。あったとしても破損して乗れない状態で、そのうえ小包は併配させられた。配達鞄を背負って小包は紐をとおして肩に振り分けにしてかついで出発した。芋やすいとん腹で力がでない。一日二回配達するのがやっとであった。こんな毎日が続いたが、局長や課長は何の心配もしてくれない。これでは郵便集配員は斃(たお)れてしまう。何とかしなければという気持で、戦前の運動者で先輩の加藤太一……に相談した。加藤は『戦前の運動者を集めて組合をつくろう。それ以外に道はない……。やってみないか』といってくれた。……運動をやろうと決め、一番に訪ねたのが戦前の従連会長で昭和十五年の従連解散まで本部で一緒に仕事をした麻布局の青野福松であった。青野の賛同を得てから、……逓同・従連・同盟関係者のリストをつくって郵便局に、自宅にと訪れて組合結成参加を要請した。逓信院の会議室や青野の自宅に集まって、有志によるなん度かの打合わせ会ももたれた」(窪田菊次『全逓労働運動史第一巻』一二九~一三〇頁)。「高物価対策懇談会」の名目で十二月二日、逓信院講堂に約六〇名の各局代表者が集まり、赤坂局の固山千之助が司会者となってあいさつし、青野福松がボーナス闘争を提案した。この席上で、組合結成の方針が決められて一六名の世話人が選ばれ、同年十二月十七日に全逓信従業員組合が結成の運びとなった。中央執行委員長には青野が選出され、固山は中央執行委員に、書記長に小石川局の田村山吉、書記に落合長崎局の窪田菊次が、それぞれ就任した。
青野を代表者とする全逓信従組麻布支部(一〇一名)が同月二十一日、赤坂支部(池田好ほか一一〇名)、郵政省支部(針谷学次郎ほか一一九九名)が翌二十一年一月二十一日、東京地方簡易保険局支部(矢島友治ほか一五二九名)が同月三十一日、三田台支部(小島馨ほか三三名)が二月十日、新橋郵便局支部(加藤弘文ほか二〇名)が三月十一日に、現在の港区地域で結成されていったのである(いずれも東京都三田労政事務所調べによる。前掲の国鉄の場合と同じく昭和二十六年現在の代表者と組合員数である。)。
全逓の場合は、当局側との合意でつくられた傾向があるが、やがて共産党系の土橋一吉らの内勤の職員が指導部に進出してきた。これは戦前ほとんどみられなかった現象であった。それは戦後の労働組合の社会的基盤が戦前よりもいっそう拡大したと同時に戦前指導者層への批判勢力の登場をも意味していた。
また、昭和五年ごろに芝郵便局に在職し、後に自動車修理工として芝に在住していた小峯某という人物が、共産党・関東労協のオルグとなって、港区地域内の各郵便局で労働問題研究会を開いたりしていた(前掲書・一四一~一四二頁)。そして、昭和二十一年一月二十五日の全逓信従組の役員改選で土橋一吉が執行委員長に、書記長には赤坂局の山崎勝司が固山と交代した。芝局からは馬場万寿郎が中央執行委員に加わった。
【東京都南部特定局従業員組合】 芝、麻布、赤坂はじめ麴町、神田、日本橋、京橋、四谷各区の特定郵便局従業員約二〇〇名が昭和二十一年一月二十七日、日本橋郵便局三階会議室で、東京都南部特定局従業員組合を結成した。大会では、団体交渉権の承認、普通局と特定局の差別待遇撤廃、給料、諸手当の五倍相当額引上げ、退職手当金の支給率三〇倍に是正などの要求を決議した。
翌二十八日組合代表は、逓信院松前総裁と東京逓信局長にたいし大会決議を要求書として提示した。とくに、普通局と特定局の差別待遇撤廃では、一月に支給された特殊手当が普通局では六〇割を支給したのに、特定局では四〇割しか出していない現状を強く訴えた(『全逓労働運動史第一巻』一六〇頁)。