【組合結成に争議が先行】 さらに港区地域内の民間工場でも、労働組合の結成があいついだ。大正十二年(一九二三)に五四日間にわたるストライキ、とくに日給社員=ホワイトカラー争議を起こして世間の注目を集めた歴史をもつ日本電気株式会社では、敗戦にともなう軍需の喪失から昭和二十一年(一九四六)九月二十八日に一万二二一一名にも及ぶ大量解雇をきっかけに、解雇反対と五〇割の賃金引上げを要求し、組合結成よりもまず争議が先行した。しかし、この争議の「指導者は社外人が多かった」という。
日本電気三田労働組合の『白かべ闘争・25年の歩み』(昭和四十五年十二月一日・第三〇〇号二頁)に記されているように、おそらく「社外人」というのは、正規の会社従業員でない徴用工らだったのであろう。企業意識をぬぐいきれない本工たちにとって、この最初の争議は感情的にしっくりいかなかったことや、解雇対象のかなりの部分が徴用工であり、そして軍需工場の徴用からの解雇を「解放」とうけとる面もあったとみるならば、それらの要因が労働者側の団結をもう一歩進めるうえでの障害になったものと推察されよう。
【三田労働組合と三田職員革新組合】 同社では、疎開工場の始末をすませた本工や職員たちが三田へ帰ってきてから、ようやく本格的な組織化がはじまり、昭和二十年十一月二十四日に三田労働組合(工員)が身分制度廃止を要求して結成され、十二月二十四日三田職員革新組合が結成されたのである。とくに後者の結成と同時に両組合の間で「共同闘争を前提に三日間にわたる激烈な討論が行なわれ、ついに二十七日には両者の提携が成って共同声明を発表、五〇割賃上げ要求を撤回し新たに要求を出すことになった。二十八日十時、新要求で会社側と交渉に入り、午後会社から応諾の回答があって三ヵ月にわたる争議は了った」(『白かべ闘争・25年の歩み』三〇〇号・二頁)とされている。
【全日電単一労組から日電労組連合会へ】 その間、同社の玉川・生田研究所労組が十二月一日、大津労組が十二月二十八日それぞれ結成され、翌二十一年一月二十四日には、工・職員組合が合同して三田労働組合が生まれた。これは戦前の職員・工員の身分差別が大きく後退したことを意味した。ついで二月二十八日には、京浜地区単一労組の結成へと進み、最初の労働協約の調印を経た五月七日に全日電単一労組へ、翌二十二年五月十四日、日本電気労働組合連合会(企業連)結成へと、戦後における民間労組運動の組織的発展の典型的な歩みをたどった。