【森永鶴見工場労働組合】 企業連の色彩のさらに濃かったのは全森永労働組合の結成といえよう。昭和二十一年(一九四六)一月十六日、森永最初の組合である森永製菓鶴見工場労働組合が誕生した日に、本社でも有志による労働組合についての理解を深めるため専修大学の武村教授による講演を行ない、組合結成準備会を発足させた。
連日連夜の暖房もない地下室では討論がくりかえされ……。外とうを着たままで、手巻のタバコを回し喫みし、ヤミ市で買ってきた黒パンを分けあいながら会議を続け」「社業の復興の民主化」「生活基盤の確立」を目指す労働組合結成の行動となっていった(『年ふり人はかわれども・全森永30年史』二九頁)。
【森永東京(本社)従業員組合】 二月一日朝、「午後一時から労働組合設立大会を開く」という掲示が出され、回覧が従業員の間に回された。松崎社長は午前十時全従業員を会議室に集合させ「諸君は軽挙妄動してはならない」と訓辞したが、午後一時予定どおり東京従業員組合(本社)設立大会が開催され、末弘厳太郎博士の記念講演も行なわれた。
東京従組設立の二月一日に全国五千の森永の労働者たちは一枚のビラを手にしました。「全国森永人に檄す!全国五千の森永人よ、いまこそたってたがいに手をとろう。経営の民主化、待遇の改善のために健全な労働組合の結成は今だ!」と訴えるこのわら半紙半分のビラは全国の森永の労働者の胸をうつものでした。涙を流して感激する人もいました。この檄文は全国の労働者に勇気を、職場には活気を与えてくれるものでした。この一枚のビラが全国のなかまをつなぎ全森永の機関紙『組合時報』の第一号となったのです。このビラに勇気づけられた全国五千人のなかまはそれぞれの職場で労働組合結成の活動を活発化し、つぎつぎと労働組合を結成していきました」(前掲書・三〇頁)。
二十一年二月三日には一〇組合ができ、それが二十一年八月には三三、やがて全事業所に結成されたのである。しかし当初、組合活動は円滑には進まなかった。東京従業員組合の要求にたいして会社側は〝全従業員の総意ではない〟と反論してきた。組合側はこれにたいして、本社・鶴見・塚口の三組合で懇談会をもち、協議会結成をめざす準備会をつくった。この三組合で従業員の過半数を占めていたことから、従業員の総意として要求を主張できるようになった。とくに争点となったのは「重役陣の刷新」だった。「①民主性の阻害として、A封建的、B独善的、C公私の混用、②信望の欠如として、A無責任、B無気力、C指導力の欠如をあげ、これらに該当する重役は非適格であると主張した……。しかもこのなかには社長の退陣もふくまれていた……」(前掲書・三三頁)。
二十一年四月一日ついに会社側は、すべての要求を承認し、社長が退陣して会長になるなど多少表面をとりつくろう面を残しながらも労働者側の勝利に終わった。民主化の大きな前進だった、五月二十三日、三組合の全国森永従業員組合協議会が正式に結成された。これを基礎に翌二十二年五月七~八日、企業連である森永従業員連合組合が発足したのである。しかし、その後事業所ごとの労働組合の自主性を主張する意見と企業連としての団体交渉権の強化を主張する意見とが対立し、GHQの経済力集中排除法の指定を森永がうけたことともからんで、しばらくの間組合の内部で一つの紛争点となった(前掲書・四三頁以下参照)。