地域内のその他の民間労組

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 そのほか民間労組では、昭和二十年十一月一日日本精工本社労組(山田乙作ほか一七四名)をはじめ、十二月二十八日田中精機(山崎清吉ほか四八名)、翌年一月十八日東京機械(松尾慎太郎ほか一二五名)、同月二十三萱場工業(山口正久ほか一一七名)、同月三十一日池貝鉄工本店(石川武ほか八四名)、三月十三日沖電気品川(小林克彦ほか一五七五名)など、枚挙にいとまないほど各労組がぞくぞくと結成されたのである。
【港区地域の労組設立状況】 昭和二十六年の東京都三田労政事務所の調査による港区地域の労働組合の設立状況を年月別に集計すると表1のとおりである。ただし、これには調査時点で存在していた組合が、いつ設立されたかを示すものであり、解散したものは除かれているし、合同した組合では創立をどちらか一方に決めた場合に他方は除かれるか、前身となったものがすべて除かれている例が多い。
 

表1 港区地域における労働組合の四半期別設立数

年計1~3月4~6月7~9月10~12月
20
21
22
23
24
25
26
10
107
85
54
43
30
27
 
34
30
16
4
5
6
 
37
20
14
14
8
9
 
18
20
12
7
10
12
10
18
15
12
18
7
 

 
【三区役所の職組は港区職組に】 たとえば、芝・麻布・赤坂の三区役所の吏員でそれぞれ結成された職員組合は、港区に合併と同時に組合も合同したが、この場合は合同した年月をもって設立年月とされている(昭和二十二年一月二十五日)。
【東京都職員組合】 ところで、これらの区職員組合ができたのも、戦後の大きな特徴の一つだった。戦前は、現業に従事する階層だけで東京市従業員組合がつくられ、戦後の組織化も戦前活躍した須賀宇太郎らの指導によって現業中心の東京都従業員組合として再建されており、区役所などの職員組合発足に際して少なからぬ影響を与えた。昭和二十一年一月二十二日、東京都職員組合が結成され、それに前後して、各区の職員組合が支部として発足したのである。こうした背景には職員は組合で生活を守らなくてはならないほど窮乏が著しかった一方、GHQの労働組合育成策をみてとった都側も、各区の総務課長に「総務課を中心にした職員組合をつくることを要望する」旨の指示を与えたという事情も加わっていた。麻布区役所職員組合で総務課長太田和男が組合役員になったというのも、そのあらわれとみられよう(元港区議渡辺勇氏談)。
【三区統合による港区発足と職員組合】 ところで、芝・麻布・赤坂の三区統合に際しても、区会議員の間には反対の声もあったが、どの区役所を本庁にするかが大きな問題となった。都職労調査部副部長だった渡辺勇(麻布区職出身)は都側(都労働局総務課長)と折衝して、二区以上の合同区に関しては、いずれの旧区役所をも当面本庁とせず、区長室を設けて、旧区役所をすべて支所とよぶことで、その対立を緩和する方策をたてた。区長室は一年間程度の経過措置とし、旧麻布区役所を港区役所の本庁とした。
 統合後の一本化した港区職員組合の組合長には、当初向井田政雄が就任し、その後任者に渡辺勇が選ばれた。渡辺は、敗戦直後の区民の交通が極端に不自由だったので、都電の充実を要求する区民の署名運動を組織する一方、都交通局との交渉を継続し、半年くらいの運動の結果、かなり都電を増発させることに成功した。このときの経験から、港区にある東京都関係の区職、清掃・福祉事務所、保健所などの組合の横断化を図って、港地区労組協議会(地区労)という地域組織をつくった。この地区労では、当時さかんに行なわれた「隠匿物資の摘発闘争」などを相当積極的に進めたという。だが、昭和二十四年のいわゆるレッドパージでは幹部がほとんど解雇され、地区労の機能が失われて壊滅状態になった。それが昭和二十五年に至って拓植粂次郎を中心として再建され、こんにちの地区労協の基礎が作られた(前出・渡辺勇氏談)。