(一) 港区内で戦後最初の大衆デモとなった「自由戦士出獄歓迎人民大会」

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【政治犯釈放・思想警察廃止の覚書 覚書に阻まれ東久邇内閣総辞職】 昭和二十年(一九四五)十月四日、GHQは「政治、信教ならびに民権の自由に対する制限の撤廃の覚書」を日本政府に手交し、政治犯人の即時釈放・思想警察その他一切の類似機関の廃止・内務大臣および警察関係の首脳部、その他日本全国の思想警察および弾圧活動に関係ある官吏の罷免・市民の自由を弾圧する一切の法規の廃止または停止、さらに天皇に関する自由討議を要求した。東久邇内閣はこの「覚書」は実行できないとして総辞職した。
 同月十日には、この「覚書」にもとづいて、東京・府中刑務所から徳田球一・志賀義雄・金天海・黒木重徳・西沢隆二・山辺健太郎・松本一三ら、豊多摩拘置所から神山茂夫・中西功らが釈放された。この日、午後二時すぎから、芝田村町(現 新橋一丁目一八番)の飛行館で彼らを迎える「自由戦士出獄歓迎人民大会」が開かれた。解放運動犠牲者救援会と政治犯人釈放運動委員会などに結集した人々によって企てられたものであった。
【三〇〇〇人が集まった人民大会】 焼けずにすんだ六階建の当時としてはなかなか立派なビルの最上階の講堂を借りたが、収容人員六~七〇〇人くらいの会場におよそ三〇〇〇人もの人びとがおしかけ、廊下から階段、屋外にまであふれる盛況を呈した。敗戦・占領という事態に当面した民衆にとって、一貫して戦争に反対してきた人びとが日本にもいたという事実そのものが、ひとつの驚くべき発見だったからでもあろう。
 ところが、府中を午前十時に出た徳田らは、予定の時刻をすぎても、いっこうに姿をみせなかった。というのも、彼らは米軍将校によって中野・憲兵学校に連行され、荒れはてた一教室で、安全装置をはずした銃を手にした兵士が内と外を固めるといったものものしい雰囲気のなかで、翌十一日までCICの取調べをうけていたためであった。
 
  「徳田さんたちが時刻が過ぎても姿もあらわさないこともあって、会場の過半数を占めていた朝鮮の人たちの間で、ちょっとしたこぜり合いが起こったんですね。それは朝鮮の大地主の息子で李朝復権運動をして、たしか有吉公使暗殺を計って、失敗したのだが、予防拘禁所につながれていた李康勲という人を歓迎する民族主義者のグループが太極旗をもちこみ、旗を壇上にあげようとしたのに対して、共産主義の立場で運動をやってきたほうから〝太極旗をひっこめろ〟〝民族の裏切り者〟という罵声があびせられ、収拾のつかない騒然としたありさまになってしまった。そこで、この会場をとるなどの準備をしてきたいきさつもあって、わたしが府中からの党の代表として、徳田さんたちは来る予定になっているけれども、どういうわけかまだ来ないことと、李康勲氏も、共産主義者とともに獄中につながれた仲間であり、太極旗も壇上に掲げることを提案したわけです。そうしたら、一体お前は何者だという質問が出たので、府中からの代表だというと、おそらく、このひとことがきいたのでしょう。赤旗とともに太極旗も並べられ、ようやく混乱も収まったというひと幕もありました」(椎野悦朗氏談)。
 
 椎野悦朗は、敗戦を九州で迎えたが、八月末ころに上京して、府中刑務所に徳田球一を訪ねることができた。敗戦で刑務所側も管理能力を失っていたため、彼は刑務所内の徳田の部屋(独房)に泊まったり、連絡のため外出する折は、志賀義雄のいとこにあたる藤田某の家に泊まったりしていた。刑務所の出入はまったく自由であったので、獄中の金天海の手紙を預かり、在日朝鮮人を訪ねたりもしたという(筆者注――昭和二十年九月十日に行われた在日朝鮮人連盟結成準備会の前と考えられる)。
 十月四日のGHQの「覚書」にもとづいて、日本政府は六日釈放をきめた(『朝日新聞』昭和二十年十月七日「徳田球一氏ら釈放 日本共産党の十六氏」による)。他方、彼らを歓迎する民衆の側も、戦災で当面の宿舎をみつけることもむずかしい事情のため、栗林敏夫弁護士宅を仮事務所として釈放された人びとの受けいれ態勢を急遽整え、十月六日に内野竹千代を発起人に解放運動犠牲者救援会が発足、梨木作次郎法律事務所にその事務局を置いたのである。
【港区での最初の街頭デモ】 十月十日の歓迎大会でも椎野に続いて、布施辰治・梨木作次郎・栗林敏夫の各弁護士らが、戦前の運動のなかで倒れた同志の思い出を語り、天皇制の打倒を叫んだ。壇上からの特高警察などへの非難にたいして参加者からも激しい怒りの声があがり、かなり熱狂的な場面になったといわれる。大会を終わって全参加者は赤旗を先頭に街頭デモに移り、日比谷のGHQ前で万歳を三唱し、ようやく解散した。当然の成行きであったろう。また、このデモがおそらく戦後の港区における最初の大衆デモだったともいえよう。