(1) 労働組合総同盟が発足

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 昭和二十年十月十日には、共産党系だけを除いて、戦前労組の右派から合法左翼までを含む全国労働組合結成懇談会が松岡駒吉の招請によって開かれ、十一月三日芝公園の協調会館(現 労働委員会館)の拡大準備委員会で名称(案)を「労働組合総同盟」と決定、十二月十四日総同盟準備会は綱領を決めるとともに、事務所を三田四国町(現 芝二丁目二〇番)の友愛病院の一室におくことになった。当時ここで働いた久恒定雄は、つぎのように記している。
 
   松岡氏を中心に進めることになった労働組合再建の事務所は、戦前の総同盟のあった港区三田四国町の地に労働組合が解散させられた後に、労働組合の財産保全のために設立された財団法人日本労働会館の経営している友愛病院の建物の焼け残りの一階の一室を借りて活動が開始された……。(大河内一男・松尾洋『日本労働組合物語 戦後Ⅰ』筑摩書房・一〇四頁)
 
【労働組合総同盟が正式発足】 産別会議(のちに総評)とならんで戦後労働運動の一大潮流をなす総同盟本部が港区に再建されたのも、戦前の友愛会から旧総同盟の遺産がこの地域にあったからであり、その歴史があったからであるといえよう。翌二十一年一月十七日、協調会館での総同盟拡大中央準備委員会で、正式に「日本労働組合総同盟」を名乗ることが決定され、松岡会長以下五六名の暫定委員も決められた。