むろん、総同盟系と産別系を統一する試みも行なわれた。当時、総同盟の側にいた高野実によれば、次のようであった。
たしか、一九四六年二月八日だったとおもう。われわれは降りしきる雪をふんで、虎ノ門あたりの、わびしい木造ビルの二階の一室に集まった。野坂を座長に、荒畑、島上、山花、安平、柳本美雄、坪田利雄、高野実、徳田、長谷川、春日、伊藤(律)、伊藤(憲一)らほか二、三人であった。朝の十時ごろから夜半にいたるまで論戦した。……何時頃だったが、野坂座長がいった。『じゃあ、みんな総同盟に加入する。統一労働同盟を守る。それから世話役に、春日、伊藤(憲一)、安平、高野の四人、これで決った』といった。股ぐらに抱えこんでいた炭火もすっかり白く、アラレは窓をたたいていた。みんな総立ちになった。何かしら明るくぬくもりがあった。徳田がわたしの手を握った。『やろう、うんとやろう』といった。それから手を握ったまま、まじまじと私をみつめた。『じゃあ、高野君、おれたちが総同盟に参加したら、いつ松岡をやめさしてくれるか』と大声にいった。みんなワァッと笑った。私らは、よかったとおもった。これで、うまくいくかも知れないとおもった。……(高野実著『日本の労働運動』岩波新書)
【統一の努力も不成熟】 復活メーデー実行などのなかで、この会合の前後に統一への努力が続いたが、二・一スト準備などで統一の歩を進めながらも全国的組織は、結局実現しなかった。