【産別会館落成】 労働運動統一への瀬ぶみが行なわれていたのとほとんど時を同じくして、昭和二十一年(一九四六)二月九日の日本新聞通信労働組合結成大会で産別会議の結成が提唱され、同月二十日第一回産別会議準備会が開かれた。次いで同年八月十九日~二十一日には、全日本産業別労働組合会議が結成されるに至った。その間の準備会本部は当初毎日新聞内にあったが七月の第二次読売新聞争議のころ、麴町区有楽町二―五の関東配電の焼ビルに事務局を移し(産別会議史料整理委員会編『産別会議小史』一一頁)、翌昭和二十二年七月二十一日、芝新橋七―一二(現 新橋六丁目一九番)に延二四〇坪木造二階建ての産別会館が新たに落成した。同地は元海軍砲術学校のあったところで、その射撃講堂と学生講堂の用地を払い下げてもらった。
建築資材も乏しい折から、千葉県館山にあった建物二棟分の払下げを大蔵省からうけたものを利用した質素なものだった。二十二年三月十三日の第三回拡大執行委員会で産別労働会館建設基金の募集と建設委員会が正式に決定され、傘下組合員の一人五円のカンパによる総工費六〇〇万円で建てられたものだった(産別会議機関紙『労働戦線』各号より)。
こうして、奇しくも敗戦直後の労働組合全国本部の二大組織とも、港区内に建設されたのである。
木造二階建てだった産別会館