(一) 省電安全運転闘争

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【省電中央労組、飢餓突破資金など要求】 昭和二十一年(一九四六)が明けて早々、しかも一月二日という日に鉄道委員会の名称で鈴木勝男委員長らは、滝東鉄局長に会い、①労働組合の承認、②飢餓線突破資金の要求、③退職金の一〇倍引上げ、④戦災者への住宅・衣料の支給、⑤物資部即時解散、⑥悪質者の追放などの要求書を提出した。それも一月十目までに回答をするよう条件をつけたものであった。
 物資部というのは、戦時中は国鉄の職員用の身回り品、食糧などの配給を行なう機関であったが、米の横流しや靴の隠匿などの不正を働き、悪の巣とみられていたからであった。また、〝悪質者の追放〟は、戦時中、国鉄はほとんど軍隊組織と変わらないほど一部幹部や職制たちが労働者に威張りちらし、ことあるごとに叱りつけ、まるで人間扱いしなかったことへの反撃であった。
 この要求にたいして運輸省当局は、急遽、一月四日の閣議の了解を得て、一月末までに三ヵ月ないし六ヵ月の特別賞与支給を発表した。省電中央労組でも一月七日に、この回答だけでは話にならないとして、次の声明を出して反発した。
 
   当面の飢餓を突破するには鉄道局長を相手にしていたのでは解決しない。全面的に単一な労働組合を結成し、政府を相手に交渉して初めて解決する問題である。よってわれわれは官製の鉄道委員会の委員を辞し、労働組合の団結の道に進む(労働省編『資料労働運動史』昭和20~21年)。
 
 同年一月九日には、新橋管内国鉄労働組合の結成大会が芝高輪の高輪国民学校で開かれている。だが、この新橋管内労組は結成後の運動にはみられるものがなく、ほとんど立ち消えの状態となっている。そして、これに代わるものとして、新橋管理部運輸労働組合(代表 長沢正成)、新橋管理部部員労働組合(代表 伊井弥四郎)、新橋管理部工電労働組合(代表 鈴木清一)の三者が鼎立の形をとって結成されることとなるが、おのおのの思想的立場にも微妙な相違を生じるようになるのである。
 また、これら一連の動きとも、さらに色彩を異にして寺山源助、柴谷要、海野正三らの国鉄職員によって、同年二月一日に上野管内国鉄全労働組合も発足している。
 ところで、さきの省電中央労組は、同年一月十二日、滝東鉄局長に一月十四日を回答期限とする新しい要求書を提出した。そして、一月十四日早朝の省電各駅に一般乗客に呼びかける省電中央労組署名入りの次のようなビラがはられた。
 
   省電従業員現下の生活状態では安全かつ完全なる省電輸送ができなくなりました。よってやむをえず危機突破のために上司に要求交渉中でありますが、現在交渉は上司の理解するところに至っておりません。しかしかかる状態の持続は一日も許されません。場合によっては乗客諸氏に対しごめいわくをかけることがあるやも知れません。
                                  省電中央労働組合
 
【全国鉄単一労働組合準備会】 こうして当局との交渉が重ねられるなかで組織の拡大強化が図られたが、一月十九日には省電中央労組を中心に、全国鉄単一労働組合準備会が発足した。二十二日、日比谷公園で全国鉄単一労働組合結成準備大会が、三十一組合四〇〇〇名の労働者を結集して開かれた。鈴木勝男が経過報告を行ない、大会宣言は「新生日本建設ニ絶大ナル使命ヲ有スル国鉄ノ運営ハ、我等従業員自ラノ手ニヨッテ確立サレル自主的労組ノ力ニマタザレバ断ジテ不可能デアル。……」ことを強調した。この単一組織と自主的労組の方針は、国鉄当局が、いわゆる「内面指導」によって当局側に都合のよい組合結成をすすめていた路線と対立するものでもあった。
 二月六日、省電中央労組の鈴木勝男委員長はJOAKのマイクを通じて、「国鉄運賃値上げ反対とともに、自分らの組合こそ最も自主的・民主的なものである」と放送した。彼はもう一度放送したが、それらは、当時のNHKの番組「労働の時間」においてなされたものだが、放送のいきさつについて、当の鈴木勝男は次のように語っている。
 
   この放送は、ヒックス中佐という占領軍の一将校がジープで呼びにきて、私には省電中央労組単一準備会の立場で自由に言いたいことをいっていいというのです。他方、寺山源助の意見は録音だったですね。ヒックス中佐は、私には自分はコミュニストだといっていましたが、われわれのほうを明らかに支持していました(省電中央労組・鈴木勝男元委員長談)。
 
 アメリカ占領軍が占領のごく最初の期間、こういった政策をとったことは事実である。鈴木元委員長の当時への懐旧談は、さらに次のように続く。
 
   省電中央労組を占領軍は、当初、ずいぶん援助してくれたですね。CIOの幹部だったらしいホートリック中佐という人は、「立場上米軍の輸送は確保してほしいが、ストライキをやるときは相談にのる」といっていました。そのほか、レーバー=セクションにいたコーエンとかコスタンチーノらは、私が最初くびになったとき呼んで、手をにぎって激励してくれたこともあった。
   しかし、私は野坂参三が帰国した際、歓迎集会に集まった群衆が首相官邸になだれこんだときに、米軍のタンクが出動しているのをみて、米軍の本質といいますか、解放軍的なものではないと感じました。
 
【国鉄労組運動に二つの思想的潮流】 ところで、国鉄労働運動に現われつつあった二つの思想的潮流は、表面ではいちおう険悪な様相を帯びはじめてはいたが、その底流では、統一への方向づけを暗中模索するような動きをともなっており、きわめて流動的な経過をたどった。
【国鉄労組東京地協】 すなわち、昭和二十一年二月八日、上野管内全労働組合や全国鉄単一準備会、大井工機部労働組合など二七の組合を統一して国鉄労働組合地方協議会が発足した。これは国鉄労働組合の東京地方本部へと発展していく最初のまとまりでもあった。
 つづいて、二月十五目、東京地協主催の東京地方国鉄従業員大会が日比谷で、約三万人の労働者を結集して開かれた。飢餓突破資金即時支給、月収五倍即時引上げ、反民主的幹部の即時退陣など一一項目の要求を可決、デモ行進で運輸省に押しかけ、村上運輸相に二十日までの回答を要求した。しかし、二十三日交渉は決裂し、東京地協は闘争宣言を発した。
 同月二十四日、省電青年部は蒲田電車区で集会を開き〝安全運転実施〟を決議し、全国鉄単一労組結成準備会青年部の名でそれを指令した。
【安全運転実施闘争】 〝安全運転〟とは、停止信号の場合は必ず停止、駅で殺到する乗降客が完全に乗り降りするのを待ってドアを閉め、緩やかに発車する、いわゆる見切り発車を絶対やらないということを争議戦術としたものであり、その後の順法闘争のはしりともいえるし、当時の労働運動の特徴的な戦術でもあった生産管理闘争の一つの独自なタイプともみられた。翌二十五日午前十時から田町・品川・蒲田・池袋・中野・下十条・東神奈川の七電車区の労働者が、この戦術を展開し、京浜東北・山手・中央・総武の各線は混乱した。さらに、その翌二十六日さらに混乱が大きくなると、東京地方協議会は、安全運転糾明のための委員四名を派遣する一方、「安全運転は不当」として全国鉄単一労組準備会を批判し、二十七日東京地協は統制違反として凖備会を除名処分にするに至った。二十六日に安全運転は中止されたが、これは国鉄の労働組合内における対立の一つの表面化であった。
 東鉄当局は、この安全運転闘争をサボタージュとみなして鈴木勝男、山本久一、市川松太郎の労組幹部三名を休職処分にするとともに辞職を勧告した。同時に新橋管理部長らをも譴責や職場転換処分にし、東鉄局長・列車部長らはそれぞれ辞職を申し出た。
【処分問題で荒れた中労委総会】 果たして、この処分問題は、中央労働委員会でとりあげられたが、二月二十七日に芝白金台の伝研二階会議室で開催された中労委総会へは、処分をうけた鈴木ら三名が、産別会議準備会代表者の聴涛(きくなみ)克巳ら十数名をともなって押しかけた。席上、鈴木・聴涛らは大声を発して反対声明書を読みあげた。結局、末弘厳太郎委員の提案で処分が正しいか否かについて調査が行なわれることになった。これは中労委にとっての初めての調査であった。
 このときの光景を、これも当時委員の一人だった桂皋(かつらたかし)は、「聴涛君が地下足袋で入ってきて、わっわっと勧進帳を読んだ。共産党に蹂躙されておるという感じがしましたね」と回想している(中労委編『中労委十年の歩みを語る』二八頁)。
 四月十八日、一ヵ月あまりの調査ののち、一般民衆に迷惑をかけた責任をとるべきだという理由のもとに休職幹部は、当分謹慎の意を表し、謹慎の情が明らかとなった適当な時期に復職させるという案が決定された。
 この決定を下した中労委では、徳田球一、荒畑寒村両委員だけは反対した。この委員会には、新聞報道関係者や組合員など百数十名が傍聴につめかけ、会場は立錐の余地がない状態であった。労働側委員でありながら松岡駒吉、西尾末広の二名が徳田案に反対の挙手をしたため、ごうごうたる非難の野次が飛んだといわれている。
 このあと、駿河台の焼け跡のビルで、粗末な洋服にゲートルを巻いた末弘厳太郎は、処分された鈴木ら三人に向かって「涙を流して口惜しがり、むしろ三人から同情される始末だった」という。しかし、五月二十三日に至って休職者三名は復職することができた。
【危険視された国鉄の車輛路線】 この安全運転事件で、社会問題として浮かび上がったのは、国電が非常に危険な状態にあるという事実であった。安全運転は争議戦術として行なわれたのだが、青年部が「国鉄は車輌・路線とも消耗がはなはだしく、このままだと四、五月ごろには車輌は半減してしまうので、事故防止のため安全運転をはじめたのだ。国鉄当局がサボっているので、われわれがサボったのではない」と東京地協に抗弁した内容は真実をついていた。
 敗戦後の日本社会のひどい疲弊は、あらゆる面にわたっていたのである。国鉄のなかでは電車がもっともひどく戦災をうけており、しかも戦時中に粗製乱造された六三型電車は、事実、本八幡と下総中山間で、また桜木町でも大事故を起こしてしまった。