【食糧危機突破人民大会】 昭和二十一年五月十九日(日曜日)、に皇居前広場で食糧危機突破人民大会(いわゆる「食糧メーデー」)が開かれた。約半月前のメーデーに続いて、この日も参加した群衆は二五万人と発表された。「働けるだけ食わせろ」という「大衆の腹からしぼり出す悲痛な声は、五月晴れの空の明るさにも似ず暗い暗い日曜日の感を深めた」と報じられた(『毎日新聞』昭和二十一年五月二十日付)。東京都立第三高等女学校(現 駒場高校)の女子生徒約一〇〇人も参加して異彩を放った。
【デモ隊の一部が皇居に突入】 最後のアジ演説に起ちあがった共産党の徳田球一は、吉田茂や戦犯者を攻撃したのち鋭い非難の矢を天皇に向けた。大会後は、吉田内閣の組閣工作中だった首相官邸に向かってデモ行進が行なわれた。また、それとは別に代表の一団は、飯米獲得人民大会の名で「天皇への上奏文」をもって皇居にはいった。この食糧メーデーで、芝区三田豊岡町一三(現 三田五丁目一一番)の田中精機工業会社の従業員で、参加群衆の一人だった共産党細胞のメンバー、松島松太郎(当時三一歳)は、天皇の戦争責任を問い、かつそれを誹謗する文言を書いたプラカードを持って皇居突入デモの先頭をきった。このプラカードは、「戦時中の強制疎開で出た襖(ふすま)の枠を半分に切って板を打ちつけ、紙をはったところに前夜、工員たちと顔料でなぐり書きした」ものだった。このプラカードが不敬罪に問われて起訴されたが、当の松島は「裁判になってから、検察側の証拠として出された一六ミリフィルムには、私が工場寄宿舎を出る朝からの行動が写されていた。ねらい撃ちされたんですね」と語っている(以上三ヵ所のかぎ括弧は、大島幸夫『人間記録 戦後民衆史』・毎日新聞社刊 二七頁)。
結局、松島は天皇を誹謗したかどで、検察当局から改正前の刑法第七四条第一項の「天皇に対する不敬の行為」として同年六月二十二日に起訴されたわけであった。十一月二日、東京地方裁判所は、この松島の天皇誹謗行為は「不敬罪にあたらず、名誉毀損罪と認める……」として懲役八ヵ月の判決を行なった。だが、翌十一月三日には大赦令(昭和二十一年勅令第五一一号)が公布・施行となって、松島は赦免となり免訴となった。