(三) 区民生活の窮乏

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【「たけのこ生活」続く】 これらの事件は当時の食糧事情がそれほどに切迫していたことを物語るものであった。主食の配給状況でみると、二十一年六月十七日現在で東京都三五区全部の配給所で、平均二〇・四日分遅配していた。芝・麻布・赤坂三区の遅配も、平均以上だった。敗戦の混乱のうえに昭和二十年(一九四五)は、四〇年ぶりの凶作だった。区民は買出し、衣類を食糧と交換するたけのこ生活で辛うじて飢えをしのいでいた。ヤミを拒否した東京高校の教授が栄養失調で死亡した(昭和二十年十一月十一日)。主人が死亡する直前の三日間に、その家族が配給をうけたのは僅かにねぎ二本だった。上野駅の地下道で一日平均二・五人(同年十月)、多い日には六人の行き倒れ餓死者が出ていた。

ヤミ値のいわしで飢をしのぐ――新橋のヤミ市で
三根生九大『終戦直後下巻・日本人がひたすらに生きた日々』
(昭和49年9月30日・光文社カッバ・ブックス)より。

表2 営団支所食糧配給遅配状況一覧
(昭和21年6月17日現在・6月18日午後3時調査)

支所名配給
所数
遅配
所数
遅配
平均
131322.1
赤 坂2220.7
麻 布5521.0
全区部合計55755720.4

『朝日新聞』(昭和21年6月19日付)より作成。


 
 住む家も極端に不足していた。戦災で家を失い、焼跡にそのまま残る人々のために赤坂区では、強制疎開で取りこわした家から集めておいたガラス戸五枚・畳三枚を一戸ずつに配った。焼けトタン・古木材で半地下の壕舎を修理し、小屋を建てて雨・風をしのいだ。雨がふれば傘も長靴もなくて仕事にも働きにも出られなかった。ふとん、かやも無くて苦労した。区役所の一隅には、熔(と)かして鍋にするため回収した鉄かぶとが山とつまれていたが、鍋・釜にも欠いた(『婦人の友』昭和二十年八・九月号)。

新橋駅前ヤミ市の雑沓ぶり
三根生久大『終戦直後下巻・日本人がひたすらに生きた日々』
(49.9.30・光文社カッバブックス)より。

【麻布区の住宅事情調査】 焼け残った家に同居するという例も少なくなかった。麻布区の調査戸数一六二四戸のうちで、同居者をおいている住居は七四六戸で全戸数の四七%にのぼった(佐藤鑑「大住宅開放論」『社会評論』昭和二十一年六月号)。たとえ同居できても、食糧不足のために、同居者間の葛藤、にくしみ合いは、お互いに耐えられない辛さだった(古田たき「私の場合」『婦人公論』昭和二十三年二月号)。