(四) 生産管理闘争

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【港区内にも生産管理スト】 昭和二十一年(一九四六)前半の労働攻勢の特徴は、生産管理闘争という形態が中心だった点にある。港区地域では、生産管理の潮流がやや引き潮になった時期ではあるが、昭和二十二年十一月日本タイプの争議団がこの戦術を使った。
 九月から労働者側は賃上げ、危機突破資金などを要求し、会社側は五、六割の人員整理、工場閉鎖を発表してもめていた。三田工場はじめ幡ヶ谷、調布、前橋の各工場があり、会社側は、東京と前橋の両地裁に争議団退去の仮処分を申請、二十二年四月二十二日三田を皮切りにこれと前後して四工場の仮処分を執行した。三田・幡ヶ谷の仮処分執行では争議団や支援の国鉄・小西六などの組合員数百人と警察官百数十人とが乱闘になり、幡ヶ谷では一八名、三田では二五〇余名の労働者が検束されるという事件が起こった。
 この争議中、再建派を名のる批判勢力が争議団を脱退し、争議団を不利におとしいれたのも、特徴的であった。ちょうど同じころ、劇場内に籠城した新橋メトロ映画館の争議団と支援労働者七〇余名が全員検束されるという事件もあった。