(一) 生産復興の闘い

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 敗戦による軍需の喪失と占領、資本家・政治家たちの戦犯追放、賠償指定、それに労働攻勢は、資本側の経営・生産意欲を減退させ、戦前の昭和九~十一年(一九三四~六)を基準として、昭和二十一年(一九四六)の生産水準は産業全体で三一・四ポイント、製造業だけでみると二五・九ポイントまで落ちこんだ。
【東鉄石炭増産隊】 激しいインフレーションで、資本家は資材を持っているだけで何倍にもはね上がったし、銀行から借入れするだけで利益を得るという変則的な経済状態にあった(小林義雄『戦後日本経済史』三四頁参照)。食糧不足とならんで石炭不足は、鉄道輸送を危機に追いこんだ。戦時中に採炭労働を強制した朝鮮人・中国人の解放によって一挙に産炭量は激減し、GHQは炭坑夫を優先的に復員させたり(『朝日新聞』昭和二十年十一月五日付)、炭坑夫になれば米や酒の特別配給を行なうなどの方策を行なった。さらに、鉄鋼や鉄道など石炭を多量に必要とする関連産業から人手を炭坑に送りこんで、増産に協力する試みも実施された。東京から東鉄石炭増産隊が、二ヵ月交替で常磐炭坑へ送られたこともあった。新橋鉄道局管内からも、これに応じて生産復興に協力した労働者も多勢いたのである。
【停電ものかは――沖電気労組の増産対策】 他方、電力不足で家庭への送電もまるでろうそくの光か、線香の光ていどの出力でしかなかったし、工場も隔日停電という状態になった。芝浦の沖電気では、当時、全国の七割にも及ぶ電話機を生産していたが、停電のため昭和二十二年十二月には四〇%以上の減産となり、労働者側も休電日の賃金をとることができない破目にあった。組合は緊急対策委員会を設けて対策を練り、送電を受ける日には夜間作業をも行なうことにした。女子も午後八時半まで残業して、週間実働四三~四五時間を確保するようにしたのであった。組合側では甘藷の夜食を出してそれに協力した。疲労も相当ひどいはずだが、公休日でさえも出勤率九八%以上の精勤ぶりだったという(『朝日新聞』昭和二十二年一月十六日付)。