(二) 「全闘」の結成と二・一ストの禁圧

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 昭和二十一年(一九四六)の五月から極東軍事裁判が開廷されるなかで、六月以降第九〇議会では、四ヵ月にわたって新憲法をめぐる活発な議論が展開された。民間の憲法研究会は統治権を平民におく草案を、また、同研究会の高野岩三郎は天皇制を廃して大統領制にする私案を公表した。同年十一月三日「日本国憲法」が公布され、翌年五月三日施行の運びとなった。
 二十一年十二月からの第九二議会では、新憲法にもとづく国会法・行政官庁組織法・地方自治法・学校教育法などが成立し、帝国議会が国会に変わるなどの一連の抜本的改革が行なわれた。
 しかし、さきに食糧メーデーにたいして警告を発したGHQは、しだいに労働運動・民主勢力にとっての〝解放軍〟ではなくなりつつあった。紙面が一変して急進化した読売新聞の編集陣の解雇で起こった第二次読売争議の背景が、実はGHQであったことにも、この事情が現われていた。資本側も反撃の構えをみせて、二十一年九月には国鉄・海員の人員整理を進めようとしたが、労働者側はこれを許さず、さらに産別会議は、新聞ゼネストの敗北にもかかわらず「十月闘争」をおし進め、電産労働者の賃金争議から二・一ストヘ向けて、いっそう労働攻勢を強めたのである。
【電産労働者の停電スト】 かなり合理的な理論で裏打ちされ、生活保障給と能力給で構成する体系だった電産型賃金を要求する電産闘争は、同年十月十九日に五分間停電スト、二十三日一部工場への午前中停電ストに発展した。これにたいして政府は翌二十四日に電産労組に警告を発する一方、労働組合調整法の規定によって中労委の強制調停に付した。ところが、中労委から出された調停案を政府がまず拒否した。中労委と政府との正面衝突となったのである。
【「共闘」から「全闘」へ】 いずれにせよ、この十月闘争で民間労働者にいちおうの賃上げが行なわれたのに反し、官公庁労働者は依然として「五〇〇円」にしばりつけられたままだった。教員組合にはじまり、全逓、国鉄、全官公庁の労働者に及んだストの気構えは、政府を交渉相手とする要求書の提出となり、十一月二十六日には全官公庁共闘(共闘)が設置された。やがて民間労働者も総同盟、日労会議、産別とが相携えて、ほとんど日本の全労働者を結集する全国労働組合共同闘争委員会(全闘)を昭和二十二年一月五日に結成した。ついで、全闘は二月一日のゼネスト決行を目指したが、マッカーサー司令官の命令でストは未然に回避された。敗戦から二・一ストまで盛り上がってきた労働運動は、明らかに新しい転換を迫られたのだった。