(三) 「地域闘争」の熾烈化と港区地域の情勢

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【新戦術として登場した「地域闘争」】 二・一ストは禁圧されたが、産別・共産党は、さらに新しい戦術を探し求めた。この新戦術は、昭和二十二年六月十一日から松江市で開かれた全逓の第三回臨時大会で定式化された。すなわち、「中央・地方の緊密な連携のもとに組合の有するあらゆる手段をもって地域に適応する闘争」を展開しようというものであった。これはそれまでの全国画一の戦術にたいする反省を一応含んでいた。
 しかも、この新戦術は職場闘争への発展を内包するものであったが、この段階では労働組合の路線として定着せず、職場要求・職場闘争は文字どおりの「地域権力闘争」の手段として、職制権力を麻痺させるものとして位置づけられたのである。
【港区で頻発した「地域闘争」】 港区地域でも、国鉄の新橋支部田町電車区における新交番制反対闘争あたりを皮切りに「地域闘争」方針がくりひろげられた。田町電車区分会は、新交番制に反対し、二十二年九月十五日に分会だけのストライキを実施したが、これは国労本部にたいする反中央闘争をも意味していた。翌二十三年三月全逓は「地域闘争」を行なったが、国鉄でも田町電車区分会など共産党の影響の強いところでは、執拗(しつよう)に続けられた。職階制を内容とする〝二九二〇円ベース〟で妥協した国労本部にたいして、電車区連合会長の鈴木勝男は、「職階制は労働者の分裂を企図するもので、これを呑んで友誼団体を欺いた国労本部を糾弾する」と二十三年三月三十一日の集会であいさつした。ここでは、「職制権力」にたいする闘いが、反幹部的闘争となり、労働組合の内部に左・右、共産党・社会党の対立をあおる結果をもたらした。すでにして国鉄反共連盟の活動がはじまっていたことも、分裂のきずを大きくする一方であった。
【田町電車区などの動き】 田町電車区を起点とする「地域闘争」はしだいに組織的となり、二十三年四月五日には新橋支部が「労働基準法を完全に実施せよ」との指令を出し、四月十三日にも「年度繰りこしの慰労休暇は必ず四月に使え」という指令を発した。これにたいし国鉄当局は、「休むな」という業務命令を出したが、休暇をとるものがかなりでたため横須賀線・東海道線に運休列車が生じた。まさに「職場離脱闘争」のはしりともいえよう。
 この闘争を重視したGHQ労働課長ハロルドは、占領軍の輸送にも甚大な影響を与えるとして、「明四月十七日十時までに、汽車および電車を平常に復帰せよ。なお、それが実行できない場合には、(一)日本政府の責任において解雇する、(二)GHQが解雇命令を発する、(三)軍事裁判に付するの三案があるが、諸君らはこの三案のうちいずれを希望するか」と労働者側に通告した。国労中闘会議は、新橋支部にたいし、「GHQから勧告があったので『新橋闘争指令第四九号・第五五号』を中止し、運行を平常に復帰せよ」と指令した。新橋支部では、この中闘の指令を受けていちおう闘争のほこを収めたが、「新橋支部との共同闘争」の指令を出していた国府津支部がさらに地域闘争を続行した。
【「民主化」から「反共」への占領政策】 一方、中労委では、五月七日新橋・国府津両支部の闘争にたいして即時中止の勧告を出し、国府津支部でもひとまず闘争に終止符をうった。ところが、六月に入ると、蒲田車掌区・中野車掌区・東神奈川車掌区などの「地域闘争」となって再燃した。なぜこうした闘争がつきつぎに果敢に闘われたのであろうか。いうまでもなく占領軍による「民主化」政策が一方的に「反共」へと方向を変えていったからであった。この間にあって、いわゆる新憲法体制をつくりあげる仕事をさせられた片山内閣にとっては、他の一面で「民主化」をも推進しなければならないという二重うつしの苦難の時代でもあった。
【「政令二〇一号」】 しかし、昭和二十三年七月三十一日に政府は「二十三年七月二十二日付内閣総理大臣あて連合国最高司令官書簡に基く臨時措置に関する政令」(政令二〇一号)を公布、直ちに施行した。公務員の争議権の否定を内容とするものであり、いわば戦後の「民主化」の時代に終止符をうつ重大な措置だったといえる。GHQのキレン労働課長までが、これに抗議して帰国するというひと幕もあった。
 このあと、北海道の新得機関区にはじまる〝職場離脱〟という形で再び「地域闘争」が激化していった。労働組合の戦術としては、基本的ともいえる欠陥をもちながら、「民主化」から「反共」への転換にたいして、労働者たちが「地域闘争」に結集して、文字どおり懸命な抵抗を試みた反映でもあった。