(四) 東交の「五・三〇事件」と港区への波及

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【東交五・三〇事件】 戦後の「民主化」を逆行させたもう一つの布石は、デモなどを規制する公安条例の制定だった。東京都議会への公安条例の上程を阻止するために、昭和二十三年(一九四八)五月三十日に行なわれたデモのなかから死者まで出した五・三〇事件が起こった。
 犠牲者を出した東京交通労働組合(東交)の柳島支部をはじめ、目黒・広尾各支部でも自然発生的な怠業がはじまった。
【東交三田支部も決起】 同じく東交三田支部の職場大会では、岡本丑太郎東交委員長が、「ここで実力行使に出れば敵の手中に陥るだけだ」と訴えたが、応援の港区共産党委員会、全電工日本電気三田分会、国労田町電車区などの代表は、「人殺しに抗議できないで生活が守れるか」と呼びかけた。六月三日には東交の柳島・広尾・目黒の三支部は無期限ストに突入し、国労新橋支部青年婦人部は総決起大会を開いて支援にたった。東京軍政部のウィリアム法務課長は、東交幹部を呼びつけてスト中止を勧告、これを受けた東交本部も三支部にたいしスト中止を再勧告した。都当局は三支部の幹部一〇名を懲戒処分にし、東交本部もまた二九名の組合員を除名処分するに至り、東交の五・三〇抗議ストは犠牲を大きくしただけで終焉(えん)を告げた。
【国電の「新交番制反対スト」】 この東交の闘いを引き継ぐかのように六月九日、国電が三日間にわたって全面ストップした。いわゆる「新交番制反対スト」である。これより先の六月一日、国鉄は公社への編成替えにさいして、ダイヤの改正にともなう国電車掌区に「新交番制」を実施する業務命令を出した。これによって国電各車掌区の勤務時間が延長されたばかりか、区間によっては数日間帰宅もできないものがでるうえ、一割くらいの勤務剰員が予想されたため、職員整理の布石ともみられた。とくに反対の動きが激しかった東神奈川車掌区では、六月九日に組合員だけの意志で電車を動かす「人民電車事件」が起こった。
 田町電車区分会でも、臨時人夫再雇用契約を独自に決定したほか、六月九日には家族総決起大会をもち日本電気・沖電気との地域共闘方針を打ちだすなどしてストを構えたが、このときはスト実施にまでは至らなかった。