芝園橋職安から始まった都内の「職よこせ」戦術

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【港湾労働者に不況対策のしわよせ】 当時相ついで実施された不況対策でもっともしわよせをこうむったものに、芝浦の荷役をはじめととする港湾日雇労働者たちがあった。不況のうえに石炭ストで船が入港しなくなった港湾荷役労働者を中心に日雇労働者たちが、昭和二十四年五月十二日朝、芝園橋公共職業安定所におしかけ、五時間にわたる交渉を行なって簡易公共事業に全員を就労させるという事件が起こった(労働省編『資料労働運動史』昭和二十四年版・一七二頁)。戦後、芝浦の繋岸施設がアメリカ軍に接収された事情もあって、日本の貨物はすべて艀荷役による以外に積卸しの方法がなかった。東京港の中心だった芝浦は、施設接収のために、その位置づけが大きく後退していた。
 東京港の港湾労働者は、関西と違って、昭和二十二年六月関東港湾運輸労働組合連合会(関港連)を組織していたが、全日本港湾労働組合同盟(全港湾同盟)が共産党の指導下にあるのを非難して、〝健全〟な組合としてつくられたものであった。全港湾同盟は、関港連の結成を重視して積極的に関港連幹部と懇談した。しかし、関港連は戦線統一の動きの主たる目標は組織の切り取りだとの逆宣伝に回り、全港湾同盟に対してはかえって誹謗の声を大にするだけだった。
 そこで、全港湾同盟は関港連加盟の各単位組合との話合いに切りかえ、統一を進めるなかで二十三年八月、東京港運の艀労働者も東京港湾労働組合結成にこぎつけ、東京港における艀労働者を組織し、ついでこれを全港湾同盟へ加入させるのに成功した。また、翌二十四年五月三十日から六月二日まで、全港湾同盟は芝公園の日赤講堂で第四回大会を開き、これまでの連合体組織を改めて単一化し、名称も全日本港湾労働組合とした(『全港湾運動史第一巻』六八~七〇頁参照)。
【芝園橋職安におしかけた艀労働者】 そのさい、東京港湾労働組合の指導者・活動家と手を組んだと思われる全港湾同盟の国分武夫は、「焼け跡の片づけ仕事がある」と呼びかけて艀労動者を集めて芝園橋職安におしかけたが、「不就労手当として、六割の一一六円を出す」という所長回答と、支援に駆けつけた都職労幹部の調停案をしりぞけて、一八二円を出させたという。ともあれ、この芝浦における「職よこせ」闘争を発火点として、新しい労働攻勢がほぼ全都にわたって展開されていったのである。