(六) 総評の発足とその後における全労会議・総同盟

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【「総評」結成とその運動方針】 産別会議が、「地域闘争」に力を注ぐほど、労働運動の分野での内部き裂は拡大する一方であり、昭和二十四年(一九四九)の行政整理、翌二十五年のレッド・パージによって労働組合への共産党の指導力は、急速に後退していった。GHQの直接的な指導と援助を背景として二十五年七月十一・十二日、芝三田の東交会館で日本労働組合総評議会(総評)が結成された。労働総同盟・全国産業別労働組合連合(新産別)・日本炭鉱労働組合・全日本海員組合・国鉄労働組合・日本教職員労働組合など一九組合・三一五万が総評に結集した。そのほか、電産・全鉱・私鉄総連・全日通・東京ガス・全映演・交通公社・新聞労連・印刷統一・日鉄八幡など一七組合の組織がオブザーバーで参加した。その直前に勃発した朝鮮戦争にたいして総評は「国連軍擁護・反共合法闘争・国際自由労連への加入」を運動方針としてうちだした。同時に「公安条例撤廃」・「戦争反対、平和独立、全面講和」をも運動方針として掲げたのである。

現在の総評会館

【「全労会議」へ走った総評の四単産】 翌二十六年総評は、単独講和反対闘争に乗りだすとともに、民同左派の高野実らが指導権を握り、二十七年二月の賃金綱領発表(マーケット・バスケット方式)で労働者の異常な関心と支持を集めた。同時に、講和条約発効にともなう労働組合規制に反対する「労闘スト」を展開することによって、階級的立場を確立し、名実ともに日本の労働運動の全国的・指導的存在となった。この転換は、戦前から合法左翼の線を歩んできた高野実が事務局長になったことや、炭労・電産・全港湾の労働者がストライキを闘って、下からの力で左旋回を支えたこと、さらには総評に結集したかなりの部分が、産別会議の側における政党を労働組合より一段高い存在とみる思想にたいする正しい批判の側面をもっていたし、労働者組織の「統一が重要であるという立場から」総評に参加した組合もかなりあった(芳賀民重氏談)ことなども、その要因をなしていたといえよう。この成長の過程で総評の行き方に反対の全繊同盟・海員組合・全映演・日放労の四単産は脱退し、二十九年(一九五四)四月全労会議を結成し、本部を麻布市兵衛町二の四(現 六本木一丁目二七番)に置いて、反共・生産性向上の方針で労働運動右派の結集体としての登場した。
【総同盟刷新強化運動協議会 総同盟と全労会議が合同】 また、これより先、総評結成にともない二十五年十一月の大会で総同盟解散の決議にさいして、全繊同盟ほかはこれに反対して退場し、総同盟刷新強化運動協議会をつくり、翌二十六年六月に総同盟を再建し芝三田四国町二(現 芝二丁目二〇番)に事務所を置いた。ただし、この段階では中心となるべき全繊同盟が加わらなかったため弱勢となったが、その後における総評脱退の四単産とともに総同盟も加わって全労会議を盛りたててきた。やがて昭和三十九年(一九六四)十一月十一・十二日、全労会議と総同盟は合同して現在の全日本労働総同盟(同盟)となったのである。

同盟本部のある三田友愛会館