(七) 三〇年間を港区内で推移した「新産別」の動き

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【共産党批判勢力としての「新産別」】 産別会議のなかで産別の本部を中央集権的な指導部とする意見と、共同闘争の機関とする意見とが対立していた。前者を代表する細谷松太は、産別会議の事務局長の地位にあったが、昭和二十三年(一九四八)二月十四日に産別民主化同盟をつくった。翌二十四年に定員法で労働運動が後退するや、共産党の組合支配を批判して、同年十二月十日、全国産業別労働組合連合(新産別)を結成し、本部を芝公園六号地(現芝公園一丁目八番)に置いた。一時、総評結成にむけて協力したが、第三勢力論を主張して総評からも脱退した。その後、傘下の有力組合が離脱したこともあって、その現勢は加盟単産五組合・組合員総数六万四五一九名で、全国中央組織としての影響力はそれほど大きくないとされている。現在の本部は西新橋三丁目九番七号にある。